半坪ビオトープの日記

野尻湖、ナウマンゾウ


一茶記念館や一茶旧宅のすぐ近くにある野尻湖は、ナウマンゾウの化石が発掘されることで有名であり、野尻湖畔近くにナウマンゾウ博物館が建っている。

昭和23年(1948)野尻湖底から湯たんぽのような形をしたナウマンゾウの臼歯の化石が発見された。これをきっかけに1962年から野尻湖の発掘が約二十回行われるようになった。ナウマンゾウは、約40万年前から2万年前まで日本にいた象で、復元像によると牙から尾までの長さが約6m、肩までの高さが約2.8mと推定されている。

ナウマンゾウとともに日本の氷河時代を代表する動物がオオツノジカである。肩までの高さは約1.7mとされている。

野尻湖から出土するナウマンゾウとオオツノジカの化石や「野尻湖人」が使っていた石器や骨器などは、およそ4万年前、最後の氷河時代のものである。
これは、ナウマンゾウの骨の化石の近くから発見された、さまざまな形の骨で作った道具類であり、野尻湖氷河時代の人々の暮らしが分かる日本で一番古い遺跡といわれている。

こちらは、発掘されたときの骨製クリーヴァー(ナタ状骨器)の様子であり、野尻湖ナウマンゾウの狩り場(キルサイト)である証拠である。4万8000年前から3万3000年前頃、野尻湖人達が狩りに骨の道具を使う文化をもっていたが、それは「野尻湖文化」と呼ばれる。

こちらは、ヒラタネクイハムシという昆虫の化石である。植物や花粉の化石、貝や昆虫、珪藻の化石などから、氷河時代野尻湖の歴史が詳しく解明されている。

野尻湖畔に出てみると、ナウマンゾウ化石発掘地の看板が立っている。野尻湖では1948年が最初の発見だが、日本最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツの御雇い外国人であるハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより研究・報告され、ナウマンに因んで命名されている。日本初の地質図を作り、フォッサ・マグナ=大地溝帯の発見者でもあるナウマンは、弱冠21歳で東京開成学校(後の東大)の教授となったが、ほぼ同年代の日本人研究者が育つとライバルとしてナウマン批判を強め、東大の初代地質学教授だったナウマンが任期を終えて帰国すると、その功績が急速に否定されたことは余り知られていない。

野尻湖の発掘は、小中学生から大人まで、一般の人たちと専門家が一緒になって調査をする市民参加方式で行われている。日本各地に「野尻湖友の会」があり、希望者の窓口になっている。