半坪ビオトープの日記

三方五湖、若狭三方縄文博物館


京都府北端の丹後半島経ヶ岬から福井県北部西端の越前岬を結ぶ直線とリアス式海岸によって囲まれた海域が、若狭湾と呼ばれる。湾内には敦賀湾や小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、風光明媚な景勝地が多く存在する。そのうち若狭湾国定公園に属する福井県三方五湖は、国の名勝に指定され、ラムサール条約指定湿地に登録されている。三方湖水月湖菅湖久々子湖日向湖の五つの湖はすべて繋がっていて、この水月湖は五湖中最大の面積をもつ汽水湖である。

最南部の三方湖は元々西北の水路でこの水月湖と通じていたが、水月湖久々子湖の間は1662年から開削された浦見川水路によって結ばれ、さらに1751年の嵯峨隧道開通により水月湖日向湖が繋がった。こうした人工的な開削により五湖が連結され、現在のような形になった。
この集落の先に浦見川水路があり、右奥の方にある久々子湖とつながっている。

今から約2万年前の第4氷河期には、日本海の海面が100m以上も下がり、三方五湖は海岸から遠く離れた内陸の湖だった。約5千年前の縄文時代前期には、海面が現在より3〜5mも高くなり、三方湖は現在の約2倍の面積があった。その後海面が下がり、ほぼ三方五湖の輪郭ができた頃、久々子湖はまだ大きな入江だったが、耳川によって海に運ばれた砂が入江に堆積し、入口がほとんど塞がれて久々子湖が誕生した。よって久々子湖は潟湖であり、他の湖は三方断層の沈降部にできた断層湖と見られている。

三方五湖の景観の特色は、低い緩やかな丘陵性の山々を湖の周囲に巡らし、温和で素朴な情緒が溢れていることだ。この水月湖も色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し、湖畔沿いの家並みや梅林など、穏やかな風情に包まれている。

三方五湖を巡るレインボーラインにはいくつか展望台があり、三方五湖はもちろん、リアス式海岸である若狭湾の切り立った海岸線が続く対照的な風景を望むこともできる。

標高約400mの三方富士とも呼ばれる梅丈岳近くの展望台からは、眼下に三方五湖を望むことができる。三方五湖は淡水・海水・汽水と水質(塩分濃度)が違い、また水深も違うことから、湖面の色も微妙に違いがあり五色の湖とも呼ばれる。
万葉集に「若狭なる三方の海の浜清み い往き還らひ見れど飽かぬかも」(作者不明、巻7-1177)という歌が収録されているが、はるか昔から「飽かぬかも」といわれるほどの多様な表情を見せていたと思われる。

最南部の三方湖の南岸にある縄文ロマンパーク内に、風変わりな建物である若狭三方縄文博物館が建っている。外観は、縄文人達が世界観の中心としていた「生命の循環」というテーマを、大地を母体に見立てることにより表現したという。内部空間は、縄文の人々が暮らしていた当時の実り豊かな「巨木の森」の内部を建築的に再現したという。

三方五湖のある若狭町には、縄文遺跡として有名な鳥浜貝塚などの縄文遺跡が多く存在するが、この博物館はそれらの出土品を中心に展示し、縄文人生活様式なども学べる場として建てられた。

1階の縄文ホールでは、縄文の森の象徴として、縄文時代後期の杉の大株(埋没林)を展示している。町内気山地区の埋没林から出土したもので、幹の直径が1.5m以上、根の張りは5m以上あったと見られている。この地域には、杉を中心とした森が生い茂っていた証拠である。多くの株には鉄斧で切断したと見られる痕跡が残っていて、枯死後かなり年月が経過した後、古代の水田開発の際に切断されたと考えられている。

「森と海・湖の文化」コーナーのメインは丸木舟。鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘、合わせて11艘の丸木舟が出土している。鳥浜貝塚から出土した丸木舟は、縄文時代前期と後期のもので、どちらも縄文時代では非常に珍しい杉材で作られている。これはユリ遺跡出土1号丸木舟で、現存全長5.2m、最大幅56cm、深さが10cmで、こちらも杉材である。ほかに復元された丸木舟も展示されている。

三方五湖のうちで最大の水月湖の底には、何層にも重なった縞模様の堆積物が厚さ73m以上もたまっている。その縞模様は白い層と黒い層が交互に重なってできており、一対で一年分を示している。その様子を「年縞(ねんこう)」という(木に例えると年輪)。水月湖の年縞は実に7万年もの長い期間にわたり、大きくかき乱されることもなく安定して積み重なり、今日まで保存されてきた。水月湖年縞により化石や考古資料など古いものの年代測定法の放射性炭素年代測定の精度が飛躍的に向上した。また花粉や黄砂、火山灰が含まれていたり、大きな洪水や地震の痕跡もとどめることから、過去の気候変動の研究にも利用されている。これほど長期間、安定して保存されている年縞は世界的にもたいへん珍しく、世界中の研究者から注目されている。

縄文博物館のある縄文ロマンパークには、野外ステージで各種イベントが行われる縄文コロセウムや野鳥観察小屋などがある。縄文広場には、縄文時代の竪穴住居や縄文の森、畑、環状列石が再現され、縄文文化に触れることができる。

博物館のすぐ南東のはす川と高瀬川の合流地点に、縄文時代草創期から前期(約12,000〜5,000年前)にかけての集落遺跡で有名な鳥浜貝塚がある。遺物の含まれる層は、現在の地表面より3mから7m下まで及んでいて、主な遺物は水中に残されていた。現在、周辺は鳥浜貝塚公園となっているが、出土した主な遺物は国の重文に指定され、若狭三方縄文博物館で展示されている。

発掘調査は昭和37年(1962)立教大学同志社大学の共同調査で始められ、10次にわたる調査で、竪穴住居跡、草創期の押型文土器・瓜形文系土器・隆線文土器、丸木舟などの木製品、編物、漆製品、栽培植物の種など多種類の出土品が発掘され、「縄文のタイムカプセル」とも呼ばれた。とりわけ赤漆塗りの櫛などの漆製品は注目に値する。1984年に出土した木片を2011年に東北大学が調査したところ、およそ12,600年前のウルシの枝であることが判明した。今まで大陸から持ち込まれたと考えられていた漆だが、国内に元々自生していた可能性も考えられるようになった。