半坪ビオトープの日記

伊根、籠神社、天橋立


丹後半島の海岸沿に北東に進むとまもなく、展望台から丹後松島という景勝地が見える。リアス式海岸の断崖、小島、奇岩が連続する様子が、日本三景の松島に似ていることから名付けられた。特に朝日や夕日の頃のシルエットが美しいという。

丹後半島を回り込んで東端に至ると、舟屋の里で有名な伊根湾に着く。伊根湾は日本海側では珍しい南向きの天然の良港で、その波静かな海と沈黙の山並みの隙間にひっそりと、船のガレージのような珍しい建築様式の舟屋が建ち並んでいる。

舟屋は、母屋から道路を挟んで海際に、切妻造の妻面を海に向けて建てられ、1階には船揚場、物置、作業場があり、出漁の準備、漁具の手入れ、魚干物の干場や農産物の置き場等と幅広く活用されている。2階は生活の場、客室、民宿等に活用されている。時間があれば伊根湾めぐり遊覧船で、海から眺めたいところだ。

海面すれすれに舟屋が建てられているため、あたかも家が海に浮かんでいるような景観となっている。舟屋は江戸時代中期ごろから存在していて、今でも周囲約5kmの湾に沿って230軒ほど現存している。平成17年には漁村で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
「わかめ刈る与佐の入海かすみぬと 海人にはつげよ伊禰の浦風」(伝、鴨長明

伊根から天橋立丹後半島を南下すると、天橋立の向かいに籠(この)神社がある。奈良時代丹後国の一宮となり、平安時代には名神大社となり、最高の社格と由緒を誇っている。一の鳥居は石造りだが、この神門前の二の鳥居は木製で、いずれも伊勢神宮と同様の神明鳥居となっている。

神門の左右に阿吽一対の石造の狛犬が安置されている。安土桃山時代の作で、国の重文に指定されている。社伝では鎌倉時代の作という。阿形の狛犬の右前足は割れて鉄輪がはめられているが、昔、この狛犬が橋立に現れて悪さをしたので、天正年間(1573-92)に岩見重太郎が斬ったことによると伝えられている。

籠(この)神社は、元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮本宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。元伊勢とは、天照大神が宮中を出てから伊勢の五十鈴川の河上に鎮座するまで、垂仁天皇皇女倭姫命天照大神の神鏡を持って各地を巡行した際、一時的に天照大神を祀った二十数カ所のことをいうが、天照大神豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒に祀るのは、吉佐宮こと元伊勢籠神社真名井神社だけとされて、特に注目されている。
社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。そして白鳳11年(671)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後、養老3年(719)真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。
伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説ある。延暦23年(804)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。
拝殿の屋根は檜皮葺で、千木・鰹木は内削ぎ8本で祭神が女神であることを表している。

主祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)、相殿神として豊受大神天照大神、海神(わたつみのかみ、海部氏の氏神)、天水分神(あめのみくまりのかみ)を祀る。
神紋は「十六八重菊」で、皇室の菊花紋と酷似している。

延長5年(927)成立の「延喜式神名帳」では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社)明神大月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭新嘗祭で幣帛に与った旨が記載されている。中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」に描かれている。
籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担い、現存最古の系図「海部氏系図(国宝、平安時代書写)」が残され、彦火明命を始祖とし82代の現宮司までの名が伝えられている。海部氏とは海人族を統括した伴造氏族であり、全国に分布が見られる。
本殿は桁行三間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。弘化2年(1845)の再建で、京都府有形文化財に指定されている。なお、わずかに見える欄干の擬宝珠は赤、黄、緑に彩色された「五色の座玉」で、格式の高い神社を表すと伝えられている。

社殿左手に境内社が並んでいる。一番手前から天照大神和魂社、春日大明神社、猿田彦神社、真名井稲荷神社と続く。真名井稲荷神社は明治末期まで奥宮に鎮座していたが、平成3年(1991)に本宮境内に移転再建された。下宮とする本宮に対して、上宮にあたる奥宮は本宮の北東約400mにある真名井神社であり、豊受大神宮・比沼真名井・外宮元宮・元伊勢大元宮とも呼ばれる。豊受大神主祭神とし、天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神・罔象女命(みづはのめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・神代五代神を祀っている。真名井神社本殿の裏手には、古代からの祭祀場である磐座が3ヶ所あり、磐座主座には豊受大神を、西座には天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神を、奥座には塩土老翁・宇迦之御魂・熊野大神愛宕神を祀っている。境内地からは縄文時代の石斧などが出土し、弥生時代の祭祀土器破片や勾玉が出土し、有史以前から祭祀場であったことがわかる。

社殿右手には蛭子神社恵美須神社)があり、彦火火出見命・倭宿禰命を祀っている。その脇に神木が立ち、その根本に産霊岩(むすひいわ)と呼ばれるさざれ石がある。

籠神社のすぐ南から天橋立が始まって長い砂州を伸ばし、東の宮津湾と西の内海・阿蘇海を隔てている。湾口砂州天橋立は、2万年前に宮津湾が完全陸地化した後、約7〜8千年前に氷河期が終わって海面上昇が落ち着くなか、当初水中堆積で発達が始まり、縄文時代の後氷期に急速に成長し、2〜3千年前に地震により大量に流出した土砂により海上に姿を見せ、有史時代に現在の姿にまで成長したとされる。
天橋立は見る方向により違う眺望となり、南の天橋立ビューランドから北を見た眺望を「飛龍観」といい、北の笠松から南を見た「股のぞき観(斜め一字観)」、東から西を見て雪舟が絵を描いた「雪舟観」、西から東を見た「一字観」と、四つの眺望を四大観と呼ぶ。この眺望は南から見た「飛龍観」である。

砂嘴の幅は20〜170mに達し、全長は3.6kmに及ぶ。一帯には約8000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。松島・宮島と並び称される「日本三景」の語句の文献的初見は元禄2年(1689)刊行の貝原益軒の著書『己己紀行』である。国の特別名勝に指定されている。天橋立の由来は、『丹後国風土記』によると、伊奘諾命が天界と下界を結ぶために梯子を作って立てておいたが、命が寝ている間に海上に倒れ、そのまま一本の細長い陸地になったという。