半坪ビオトープの日記


海善寺のさらに駅寄りに稲田寺(とうでんじ)があるが、通りからかなり奥まったところにある。

浄土宗の敷根山稲田寺は文正元年(1466)法蓮社本誉により創立された。

幕末開港時には、ロシア使節プチャーチンとの交渉に当たった応接掛川路聖(としあきら)らの宿舎となり、その後下田奉行の伊沢美作守が宿舎とし、安政地震後には仮奉行所ともなった。山門の左側に、安政地震後の大津波で犠牲となった人たちを供養する津なみ塚があるはずだが、運悪く見つからなかった。

山門を入って右側の阿弥陀堂には、平安時代後期の阿弥陀如来座像が安置されている。

檜材の寄木造りで、像高は208cmの南伊豆には例を見ない大像である。近世の補修の跡もあるが、丸顔の穏やかな面相や浅く優美な衣のひだは定朝様式の典型的な作風を示している。現在は黒漆塗りとなっているが、当初は漆箔が施され、金色に輝いていたであろうと考えられている。江戸時代の作といわれる観音・勢至菩薩を両脇に従え、三尊形式をつくっている。

山門を入って左側に唐人お吉の恋人だった船大工、鶴松の墓がある。仲を裂かれて領事ハリスの侍妾として仕えたお吉と鶴松は、後年、旧情を温め仲睦まじく同棲したものの、束の間の四年ほどだった。故あって離婚した翌年に、鶴松はぽっくり急死してしまった。鶴松は、性格温順で酒も飲まず煙草も吸わず器用な船大工職人であったという。