半坪ビオトープの日記


八幡神社の駅寄りに八幡山宝福寺がある。永禄2年(1559)信長の圧迫を逃れ、本願寺第十一代顕如並びに法孫釈了善が真言宗から浄土真宗に改め開基となる。
嘉永7年(安政元年 1854)に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は仮奉行所となって下田条約交渉の日本全権の本陣となった。日露和親条約交渉も当寺で行われた。

文久3年(1863)宝福寺に滞在中の土佐藩山内容堂勝海舟が訪れて、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、飲めない酒の大杯をためらわずに飲み干して、ようやく赦免が認められたのである。
宝福寺は唐人お吉の菩提寺として知られ、隣接する記念館にはお吉の遺品やハリスの使用した品々が展示されている。

お吉の本名は斎藤きちという。愛知県の船大工の二女として生まれ、4歳で家族とともに下田に移り、7歳で遊芸に優れた裕福な老女の養女となって踊りや歌をみっちり仕込まれた。14歳で芸妓になると上手な新内で評判となるが、16歳のとき安政の大地震で両親と養母を失い天涯孤独の身となるも、幼馴染みの船大工の鶴松と将来を誓い合う仲となる。安政3年17歳のとき、玉泉寺に赴任した領事のハリスに見初められ、ぜひとも妾にと望まれたが、きっぱりと断った。けれども役人の必死の説得に負けて承知をしてしまう。ハリスが帰国後は「唐人お吉」と世間から罵声と嘲笑を浴びたが、それは人種的偏見だけでなく莫大な支度金や年俸に対する嫉妬にもよるという。芸妓として流浪した後下田に戻り、鶴松と暮らすも数年で別れ、安直楼という小料理屋を開くもほどなく廃業し、最後は乞食となった末投身自殺をした。
宝福寺の住職に手厚く葬られ現在に至り、歴史に翻弄されたお吉の生涯を偲んで訪れる人が絶えない。墓石は芸能人水谷八重子らにより寄進されたという。

右にももう一つ墓石があった。

宝福寺のさらに駅寄りに浄土宗の富厳山海善寺がある。観応元年(1350)明蓮社量誉昭善和尚により開創され、天正18年(1590)現在地に移っている。

徳川家康により五千石の下田領主に封ぜられた戸田忠次の居館の跡であるとともに、下田条約の交渉に当たった林大学頭の宿舎であり、文久3年徳川十四代家茂が翔鶴丸で上洛の途中、西風に阻まれて当寺で宿泊・越年した。本堂は昭和34年の火災で焼失し、モダン建築で再建されたが、山門は江戸時代の面影を残している。