半坪ビオトープの日記


弁天島から下田港の西岸に位置する下田公園が見える。今は城跡となった下田城は、鵜島城とも呼ばれ戦国時代には北条氏の出城であった。天正16年(1588)北条氏直は豊臣軍の侵攻に備え、清水康秀を城主として守備を命じた。天正18年、豊臣軍は一万の軍勢で下田城を包囲した。康秀は数百の兵と籠城したが翌月落城した。公園の高台には天守台跡や二の丸跡などが残る。

安政元年(1854)日米和親条約締結とともに、ペリー艦隊7隻が下田港に入港した。そして乗組員が上陸したのが下田公園下の鼻黒の地であった。
ここを上陸記念の地として、ペリー艦隊上陸の碑が建てられた。ペリーの胸像は村田徳次郎の作であり、前の錨はアメリカ海軍から寄贈されたものである。記念碑にはブッシュ大統領からのメッセージも刻まれている。この上陸地点から了仙寺までペリーが大行列を率いて辿った道が現在ペリーロードと名付けられている。

お吉が晩年に開いた小料理屋、安直楼が今でも残っている。お吉はハリスから暇を出されると唐人と嘲笑され、横浜や三島を転々とした。横浜で再開した幼馴染みの鶴松と結婚するが数年で離婚。明治15年下田に戻り、安直楼を開店したが、深酒がたたり破産すると、明治23年稲生川渕に身を投げ、自ら48年の生涯を閉じた。

安直楼は、のちに「すし兼」という寿司屋になり、百年余り営業していたが、ついに寿司屋を閉じ、お吉ゆかりの品などを公開していた。今また閉鎖中で中を見ることができなかった。

安直楼から近くの金目鯛料理店曻龍に向かったが、曻龍のすぐ手前に古い酒屋があった。明治20年(1887)創業の土藤商店には、昔の酒蔵からもらった重厚な木製看板や古い大福帳など珍しいものがたくさん展示されている。明ごころのラベルのある一斗瓶は、一升瓶10本分の大きさの酒瓶である。

ユニオンビール、カブトビールなどなどのホーロー看板も珍しいものが多い。向かいのお店では、黒船大将や豆州下田大浦番所酒などオリジナルの酒を試飲させてくれたのでついつい買い求めてしまった。