半坪ビオトープの日記


田麦俣から鶴岡市内へ戻る途中真言宗智山派湯殿山注連寺がある。注連寺は湯殿山表口別当寺で、出羽三山の参道口にあたり、寺の先には「女人結界」があったため、女人禁制の湯殿山に詣でたい女性のための遥拝所として栄えた。

天長10年(833)に空海がここで修行し、湯殿山大権現を勧請して堂宇を建てたのが開創と伝えられる。その時桜の木に注連縄(しめなわ)を掛けたので注連寺となり、村も七五三掛(しめかけ)と呼ばれた。寺名に神道の祭具である注連の名があるのは、注連寺がかつて神仏習合であった出羽三山別当寺であったことを示している。

本堂には、三千日の苦行を行い、文政12年(1829)62歳で入定したと伝えられる、鉄門海上人の即身仏が安置されているが、撮影禁止である。即身仏は全国に18体あるとされ、そのうち8体が山形県に、そのうち4体が鶴岡市にある。近くにある真言宗豊山派の大日坊には、天明3年(1783)に96歳で入定した真如海上人の即身仏が安置されている。
鶴岡市出身の鉄門海は、北海道から四国まで、とりわけ東北・関東地方で多くの社会事業を施し、湯殿山信仰の布教に大きな業績を示したため、各地に鉄門海の碑が点在している。
堂宇は明治時代に焼失したため、現在の堂宇はそれ以後に再建されたものである。
湯殿山と注連寺が開かれたのが丑年だったことに因み、丑年と迎え干支の未年は「御縁年」として、本尊の大日如来像が開帳される。

本堂の天井には、チャップリンやデフォルメされた妖怪などの顔が描かれている久保俊寛作の「聖俗百華面相図」のほか、数々の天井画がある。この天井画は、村井石斎作の「飛天の図」である。

こちらの天井画は、十時孝好作の「白馬交歓の図」である。ほかにも木下晋作の「天空の扉」などがある。

小説家の森敦が一年ほど過ごしたことがあり、20数年後に書いた「月山」の舞台となったので、境内に森敦文庫がある。
また御神木の七五三掛桜(かすみ桜)も境内に植えられている。咲き始めは白色だが次第に桃色に変化するという。