半坪ビオトープの日記


以前から竹林があったところに新たに鳳凰竹、金明竹など13種類の竹を植えて、竹の子公園として整備されている。

今は高島平駅の北にある、この弁天塚の碑と呼ばれる扁額には「徳丸原遺跡」と徳富蘇峰の篆筆で刻まれている。碑文には、高島秋帆が徳丸が原で砲術の演習を行ったことが記されている。
1972年から入居が始まった高島平団地の建設で開発されたこのあたり一帯は、古くから一面の沼や湿地の原野で徳丸が原と呼ばれていた。
高島秋帆の演習後、1867年11月に幕府はフランス人教官の提案を受け入れ、付近十八ヶ村の草刈り場となっていた徳丸が原を大砲調練場として大拡張を計画した。それに対して三千人の農民が立ち上がり、下見に来た役人やフランス人を取り囲み厳しく糾弾して、役人たちを謝らせている。
この「徳丸一揆」のことには、残念ながら板橋区史は触れていない。その年8月に、目黒・世田谷・渋谷方面の駒場野で、拡張反対の農民が立ち上がっているので、その影響を受けたと考えられている。
その頃、大政奉還鳥羽・伏見の戦いがあり、幕府も調練場どころではなかったようで、明治3年には徳丸が原は農民へ払い下げられた。