半坪ビオトープの日記

国津意加美神社

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国津意加美神社
壱岐島の西南に位置する郷ノ浦は、壱岐の表玄関として多くの観光客が訪れる島の中心地である。その中心にある壱岐市役所すぐ近くの道路に面して、国津意加美(くにつおがみ)神社がある。石段の上に鎮座する一対の狛犬壱岐の明光として知られる山内利兵衞が1862年に献納した傑作であるが、残念ながら写真を撮り損ねた。

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国津意加美神社の社殿
参道の石段を上った先に建つ社殿は、薄桃色をしている。社殿の両脇に境内社がある。元は妙見宮と称していたが、延宝四年(1676)、平戸藩国学者:橘三喜による式内社査定において、式内小社国津意加美神社に比定された。

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本殿と境内社
社殿の後ろには本殿が構えていて、その左手には小さいがしっかりとした苔むした石造鳥居が建ち、奥には境内社が二つ並んでいた。

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左の境内社と石祠
左の境内社には、大きめの石祠があり、その中には大きな石が祀られていたが、祠の前には狐の焼物が賑やかに奉納されていたので、稲荷社ではないかと思われる。その左手にも苔むした石祠がいくつも並んでいた。

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稲荷社
右の境内社の中にも石祠があり、同じように狐の焼物が奉納されていたので、こちらも稲荷社かと思う。

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拝殿内
拝殿の中を見ると昭和天皇の写真など様々な由緒ある品々が掲げられていた。主祭神として素戔嗚尊を祀り、大己貴命稲田姫命、闇袁加美神も祭神として配祀する。
袁加美(くらおかみ)神とは、伊邪那岐神火之迦具土神を斬った時、火之迦具土神が流した血から生まれたとされる神で、御津羽神と対をなす龍神である。

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社殿右手の境内社
社殿の右手にも境内社があり、大きな石祠には月に雲紋が掲げられていた。

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本殿前の随身
ガラス窓越しに社殿の中を見ると、随身姿の守護神が本殿に続く階段の左右に配されていた。

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麦焼酎壱岐の島」

まだ二日目だが、島限定の文句に誘われて、部屋飲み用の麦焼酎をもう一本買い求めた。かめ貯蔵の「壱岐の島」、こちらもコクがあって美味しい。

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郷ノ浦の夕食

この日は郷ノ浦の大きなホテルに泊まった。夕食にはバーニャカウダの先付にお造りには塩雲丹、タコ、鰹、イカ鍋物は名物の雲丹しゃぶ。雲丹しゃぶとは雲丹の殻を割る時に出るエキスと和風だしを合わせた雲丹出汁で、肉や魚などをしゃぶしゃぶするもの。この日は真鯛を使っていた。

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石鯛の酒蒸し
こちらは石鯛の酒蒸し。野菜の上に乗せて、和風アクアパッツアといったところか。

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大根と牛ロースのミルフィー
こちらは大根と牛ロースのミルフィーユ、オクラ添え。牛肉は少量だが、工夫を凝らしている。

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タコ飯
ご飯はタコの柔らか煮を炊き込んだタコ飯。
 

岳ノ辻、見上神社、鬼の足跡

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岳ノ辻展望台
壱岐島の南部に、島内最高峰の岳ノ辻がある。山頂付近に設けられた展望台からは、玄界灘に囲まれた島全体がぐるりと見渡せる。西の展望台からは、右手に郷ノ浦港が見下ろせる。港の北側の元居浦(白いアーチ型の橋のすぐ向こう)には、安政6年(1859)元居の漁民が春の初めの突風で遭難した事故を供養する慰霊塔が建立されている。「春一番」という言葉は、この事故以来、地元で春の初めの強い南風を呼ぶようになったのが始まりである。正面の郷ノ浦港の沖に浮かぶ三つの有人島は、渡良三島原島・長島・大島)という。

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岳ノ辻展望台
手前の林などが邪魔して、雄大な景色が一望、とはいかない。渡良三島より左手(南西)を眺めると、かすかに島が認められるが平戸島と思われる。

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岳ノ辻
岳ノ辻には、古代より烽(とぶひ、狼煙台)や遠見番所などが設置され、国を守る要所として重要な役割を果たした場所でもある。

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岳ノ辻
東・中央・西の展望台が遊歩道で結ばれており、島内最高峰とはいっても、たかだか標高212.8mにすぎず、平地が多い壱岐島は全体的に平らかな島であることがわかる。

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岳ノ辻展望台
東の展望台から北西を眺めれば、郷ノ浦町の半城湾を認めることができる。

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岳ノ辻展望台
東の展望台から北東を眺めれば、原の辻遺跡がある深江田原の平野をかすかに望むことができる。地学的には、壱岐島の大部分は火山活動によるなめらかな玄武岩質の溶岩の噴出によって平らな島が形作られたが、その上に火山灰や火山礫等が積み重なり、現在の岳ノ辻が出来上がった。今から約1万年前のことという。

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見上神社
東展望台近くには、壱岐で最も高い場所に建つ見上神社がある。三神大明神ともいい、木鏡一面と石祠一宇を献じ、壱岐島延喜式内社二十四座の一つとなっている。

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見上神社
見上神社の祭神は、彦火々出見命。彦火々出見命とは、記紀によれば、天孫邇邇芸命木花之佐久夜毘売命の御子で、鸕鷀草葺不合命の父。邇邇芸命に一夜の交わりで妊娠したのを疑われた木花之佐久夜毘売命は、疑いを晴らすために産屋に火を放って、その中で火照命火須勢理命火遠理命の三柱の御子を産む。火照命は海幸彦、火遠理命は海幸彦とも呼ばれ、海幸彦・山幸彦の物語の主人公にもなる。火遠理命は『日本書紀』では彦火々出見命と書かれ、初代天皇神武天皇のこととされる。彦火々出見命を祀る神社は、対馬和多都美神社をはじめ、九州および各地に散在する。見上は見神であり、見張りの神でもある。古来より峰火と海上の守り神として祀られてきた。

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鬼の足跡
岳ノ辻の後、郷ノ浦を通り越して壱岐島の最西端、鬼の足跡を訪ねた。東シナ海に面して突き出した大きな半島の先端である牧崎園地の中にぽっかり空いた大穴があり、「鬼の足跡」と呼ばれている。

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鬼の足跡
この大穴は高さが30m、直径が110mもあり、洞窟で海と結ばれている。伝説によれば、この大穴は大鬼のデイが鯨を掬い取るために踏ん張ってできた足跡で、この時のもう片方の足跡は勝本町辰島の蛇ヶ谷にある「鬼の足跡」であるという。二つの穴は約10kmも離れているから巨大な鬼である。

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鬼の足跡
実際には長い時間をかけてできた海蝕洞の先端部が陥没してできた大穴で、残った海蝕洞で海と繋がっている。案内によると、春分の日秋分の日には足跡の穴に収まるように夕日が沈むという。

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牧崎の海岸線
この牧崎一帯は平均30mの断崖になっており、荒々しい海岸線の景観はとてもダイナミックである。

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牧崎園地
崖の上は天然の芝生に覆われている牧崎園地で、散策するのが心地よい。

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ゴリラ岩
牧崎園地の北の海岸には大きな岩があり、ゴリラ岩と呼ばれている。右手の半城湾の彼方(北)には小牧崎半島や黒崎半島の先端部が見える。
 

鏡岳神社、初瀬の岩脈

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鏡岳神社、遥拝所
志々岐神社の後、壱岐島南端にある鏡岳神社を目指して、全く人気のない道路を小一時間ほど進んだ。小さな初瀬漁港の東にある豊かな緑に覆われた小山が鏡岳。標高50mほど、316段の石段で知られる神社で一の鳥居の脇には新しい遥拝所が設けられている。

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一の鳥居の扁額
一の鳥居から苔むした石段の先に二の鳥居は見えるが、その先は鬱蒼とした森になっていて社殿は見えない。一の鳥居の扁額に彫られた「鏡岳神社」の文字がかなりデフォルメされているのが面白い。特に「社」の文字が。

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二の鳥居
明治44年の二の鳥居までで50段ほど。石段はまだ250段以上続く。

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まだ150段は続く
半分以上登ってようやく社殿が見えてきたが、まだ150段は残っている。この神社の森には分布北限のギョクシンカ(玉心花、Tarenna gracilipes)という主に九州南部から台湾にかけて文王するアカネ科の常緑低木や、ヒメハマナデシコという主に九州から南西諸島に分布するナデシコ属の多年草長崎県で初めて発見されたマヤラン(Cymbidium macrorhizon)という関東から九州に分布するシュンラン属など貴重な植物がたくさんあり、森全体が県指定天然記念物になっている。

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コベソマイマイ
社殿に近づいたところで、大きなカタツムリを見つけた。おそらく西日本に分布するコベソマイマイSatsuma myomphala)であろう。

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鏡岳神社の社殿
ようやく社殿まで辿り着いたが、扉が閉まっていた。

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拝殿内

そっと中を覗いてみると、改装したての内部には、玉串三段案に御幣や、奉献酒、左脇にお祓いに使う大麻(おおぬさ)も揃っていた。その先に本殿が認められた。祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)と伊奘諾命、伊奘冉命。日本書紀によると、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命は、天照大神素戔嗚尊とのうけい(誓約)において、素戔嗚によって天照大神の身につけた珠を物実として生み出され、天照大神の子となった五柱の男神の第一の神。鏡岳神社の案内板によると、古くは本社、中宮、北山宮からなる三者権現を成していたという。伝承として、彦兵衛という柳田の信心深い農夫が豊前国彦山(福岡県英彦山)に夫婦で参拝していたが、老齢のため参拝できなくなった。あるとき彦山権現の神が現れ、初瀬浦に鏡一面を掛けておくので、東嶽に神殿を造り毎月参拝するようにと告げられた。実際に現地に行くと鏡があったため、お告げの通りに神殿を造ったという。

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本殿の重厚な装飾
本殿は屋根を支える組物がとても重厚で、肘木、木鼻、蟇股、虹梁、大瓶束などに色鮮やかな装飾を施している。懸魚も華々しく、一番上の拝懸魚(おがみげぎょ)と両脇の鰭(ひれ)、さらにその左右に鳥のような降懸魚、木鼻も鼻の長い象や龍と、稀に見る建築技術の力量に圧倒される。

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社殿前の石の祠
社殿の前脇に石の祠が二つ並んでいた。左の祠には「比賣社」と彫られているが、右の祠は残念ながら読み取れない。

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初瀬の岩脈
鏡岳神社に向かって左手に進むと展望台があり、正面に初瀬の岩脈がある。垂直に切り立った高さ41mの断崖に、白い流紋岩の間に幅1718mの黒い玄武岩が貫入し、白黒の対比を鮮やかに見せている。地元では「白滝」と呼ばれる奇勝であり、長崎県の天然記念物に指定されている。

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初瀬の岩脈
基部の大半は砂礫に没し、頂端はその幅のまま地表に露出している。

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初瀬の岩脈
黒白の境を見ると、黒い玄武岩の中に白い流紋岩が抱き込まれているのがわかる。これは先に噴出した流紋岩の隙間に、後から玄武岩が侵入したことを表している。

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初瀬の岩脈
この岩脈は壱岐における2種の火山岩の噴出した順序をよく示すもので、壱岐島の成立解明上貴重な資料である。なお、壱岐の構成岩は大半が玄武岩流紋岩は局部的にしか見られない。
 

碧雲荘、志々岐神社

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原の辻・石田地区
原の辻・石田地区マップをみると、壱岐南東部の石田地区には、壱岐空港やフェリー発着の印通寺港、海水浴場など現在も賑やかな観光地となっているのがわかる。松永安左エ門記念館も後で立ち寄ることにする。その裏に碧雲荘がある。

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碧雲荘の門
印通寺港を見渡す豪邸・碧雲荘の入口は、巨大な柱で組まれた間口6mの木造の門である。

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碧雲荘
この碧雲荘は、朝鮮半島で財をなした印通寺浦出身の資産家・熊木利平が昭和初期に建てた邸宅で、木造の母屋と門と石垣が国の登録文化財になっている。

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松永安左エ門記念館
長崎県対馬から壱岐島を貫通し佐賀県唐津市に至る(海上)国道382号に沿う石田町松永安左エ門記念館がある。石田町出身の「日本の電気王」「電力の鬼」とも称された松永安左エ門1875-1971)は、慶應義塾福沢諭吉の教えを受け、明治43年(1910)九州電気設立を契機に電気事業に着手し、明治から昭和にかけて、日本の電力の歴史を牽引し続けた。

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福博電気軌道の路面電車と松永夫婦の胸像

入口には松永が設立した福博電気軌道(後の西日本鉄道)の路面電車が置かれ、館内には犬養毅後藤新平福沢諭吉からの書などが展示されている。中庭には彫刻家・北村西望が製作した、松永夫婦(安左エ門・一子)の胸像が設置されている。

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マリンパル壱岐
印通寺で昼食をとることになったが、めぼしい店が臨時休業となっていたので、地場産品の直売所兼土産売り場のマリンパル壱岐で、イートインにした。刺身は「ヨコワ」という天然マグロの幼魚。わさびと醤油もサービスしてもらった。

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志々岐神社
昼食後、印通寺港のすぐ東にある小さな志々岐神社を訪れることにした。人気のない道を海に向かって進むと、大きな石造鳥居を潜ることになった。昭和期の鳥居という。残念ながら逆光で、扁額の文字は読み取れない。

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亀崎
海に出たところに灯明台が一組あり、そこから東(左手)に進み、(右手を)振り返ると銭亀崎という小さな岬が見える。小さな白浜もひっそりしている。その向こうが印通寺港である。

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行き止まりにニの鳥居
行手の東は行き止まりで、江戸時代のものといわれる二の鳥居のところに、軽自動車が止まっていた。人気がなく静かな休憩所だ。志々岐神社は志自岐神社、志々伎神社とも書かれる。

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志々岐神社の二の鳥居
小さな石造鳥居と灯籠があり、急な石段の上に社殿らしき建物が見える。

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淡嶋社
石段の途中左手に、淡嶋社が祀られていた。珍しく金属製と思われる鳥居が立っている。

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志々岐神社の社殿
急な石段を上り詰めると、ようやく社殿らしき建物が現れた。

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拝殿、本殿、稲荷神社
社殿は拝殿で、その奥に本殿の屋根だけが見えた。主祭神十城別王(トオキワケノミコ)で、他に武加比古王、日本武尊、帯彦天皇、稲依王、稚武王(ワカタケノミコ)、稚武彦王も祀られ、異常なほど祭神が多い。主祭神十城別王は平戸の志々岐神社に祀られていて、そこが本社で対馬の厳原など九州にいくつか分社があるという。『日本書紀』によれば、十城別王日本武尊と吉備穴戸武媛の子で伊予別の祖という。日本武尊は最初、垂仁天皇の娘・両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、帯彦天皇(足仲彦ともいい、後の仲哀天皇)、稲依王、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(ワカタケノミコ)という子があり、また、吉備武彦の娘・吉備宍戸武姫(きびのあなとたけるひめ)とも結婚し、武加比古王と十城別王という子があり、さらに、忍山宿禰の娘・弟橘姫と結婚し、稚武彦王という子がある。十城別王は、神功皇后新羅遠征(三韓征伐)に軍大将として従軍し、帰還後も外敵防御のため平戸に留まり生涯を終えたという。神社の伝承によると、神功皇后壱岐に寄った時、従軍の十城別王は戦争が怖くなって途中で引き返した。神功皇后は命令に違反しているといって、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、過たずに王を射通した。その後、この地を「射通し」と言い、訛って「印通寺」となったという。本殿の神紋は、神功皇后の三五の桐の紋である。末社は稲荷神社。

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動物の石像
拝殿の左手にはいくつかの記念碑が立ち、その上に龍や鷹と思われる動物の石像が安置されていた。
 
 
 

原の辻遺跡=一支国王都復元公園

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原の辻遺跡見取り図
公園内には駐車場がなく、公園もかなり広いので見取り図があって助かる。手前の遺跡範囲に10数棟の復元建物が建てられている。一支国博物館への道も示されている。近くには人面石の出土地点もあるようだ。

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原の辻遺跡=原の辻一支国王都復元公園
ガイダンス斜向かいの、原の辻(はるのつじ)遺跡=原の辻一支国王都復元公園は、長崎県で2番目に広い平野である「深江田原」にある。長さ1200m、幅500mの北向きの台地とその周辺に立地する。島内各地から湧き出た水が集まり、島内最長を誇る幡鉾川に合流する場所に位置する。遺跡から海は見えないが、幡鉾川を東に約1km下ると内海湾に行き着く。公園全体が芝地のように草が刈り込まれている。

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原の辻一支国王都復元公園
原の辻遺跡からは、土器、石器、銅鏡、銅鏃、骨格器、鉄器、貨銭など中国・朝鮮との交流を裏付ける遺物が多く出土し、弥生時代を通じて壱岐最大の遺跡で、「魏志倭人伝」に書かれた一支国の拠点集落であったことが確実視されている。復元された建物は、左のような高床式の交易の倉庫や交易司の家、右手奥の物見櫓など様々な形をしている。

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原の辻一支国王都復元公園
使節団長の滞在場や使節団従者の滞在場、使節団用倉庫などとされるが、それほど細かに特定されているのか、推定で配置しているのかはわからない。

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物見櫓や番小屋
一番背の高い物見櫓の脇にも番小屋や使節団の宿舎などが建てられている。物見櫓は10
mを超える高さで、青森の三内丸山遺跡の物見櫓を彷彿とさせる。

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原の辻遺跡の番小屋の内部
物見櫓の脇の番小屋の中を覗いてみたが、かなり内部空間が広く採られていて、天井も予想より高く組み立てられていた。壁の土壁も厚く、屋根も頑丈に造られているので、台風にも耐えられると思われた。

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高床式の建物
ただし、穀倉とされているこの高床式の建物の屋根は、三分の一ほど茅が剥がれていた。

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高床式倉庫
こちらの高床式倉庫は丈夫に造られている。よく見ると壁が土壁のものと、木造のものがあり、多分、柱穴だけから復元しているので建物そのものは想像するしかないと思われる。

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一支国王都の復元場所

一支国王都の復元場所は、広大な深江田原の中央に位置する高台にあるので、周りには水田が広がっている。北に見える丘の上には先ほど訪れた一支国博物館の建物が認められる。

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王の居館
ここが一番奥の王の居館(住まい)である。門柱の先には双葉のような飾りが見える。

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王の館
王の館は住居としては一番大きいが、長老や使節団などを迎えることも想像される。

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王の館内部
王の館内部を覗いてみると、大きな甕や壺のほか、権威を象徴する鏡や剣などがある。

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ハマアザミ

こちらの色鮮やかなアザミは、ハマアザミ(Cirsium maritimum)という多年草である。茎は株から枝分かれし、葉は厚くやや肉質で強い光沢があり、羽状に深裂し、裂片には刺のある欠刻状鋸歯が多数ある。頭花は直立し、棘のある苞葉がある。花期は7〜11月。本州伊豆半島以西、四国、九州の海岸の砂地などに群生する。

 

一支博:広重展、原の辻ガイダンス

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歌川広重肖像画

ちょうどこの夏、一支博では特別企画の広重展が開催されていた。広重の代表作「東海道五十三次」全55枚を中心に、壱岐を描いた「六十余州名所図会 壱岐志作」他が展示されている。歌川広重(寛政9年〜安政5年、1797-1858)は、江戸時代末期の浮世絵師で、名所図会など風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。安政5年9月6日、流行のコロリを患い急死した。享年62歳。この広重肖像画は、安政5年作、絵師は三代歌川豊国である。広重の辞世の句は、「東路へ筆をのこして旅の空 西の御国の名ところを見舞(みん)」。

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東海道五十三次日本橋
代表作「東海道五十三次」(保永堂版)は、五十三の宿場に江戸と京都を足して全55枚に描いた。最初の絵は、東海道の出発点、日本橋の朝の景である。両側に木戸を描き、出発に相応しい構図である。

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戸塚
品川、川崎と進み、六枚目は、戸塚の元町別道。ここから相模国に入る。日本橋から一泊目にあたり、小田原宿に次ぐ規模の宿場だった。

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三島
小田原、箱根を越えると駿河国の三島の朝霧。右奥に見える鳥居は三島大社。夜の明けやらぬ朝靄の世界が、影絵のようなぼかし摺の中に浮き上がる。

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沼津
三島の次が沼津の黄昏図。連作中唯一の満月が中央奥に木に半分隠れて描かれる。巡礼の母子に続く、大きな天狗面を背負う金毘羅参りの男の姿が面白い構図だ。

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蒲原

次に目を引くのは、蒲原の夜之雪。前後の宿には雪は降らず、いきなりの雪景色がひっそりとした沈黙の世界を存分に描き出している。

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三河赤坂宿
ずっと飛ばしてこれは三十七枚目の三河赤坂宿の旅舎招婦ノ図。東海道で唯一21世紀まで営業を続けた旅籠がある宿場である。右の部屋では二人の飯盛女が化粧に余念がない。飯盛女とは副題にある招婦(娼婦)のこと。

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庄野の白雨
四十六枚目は庄野の白雨。夏の夕立=白雨が激しく降る中、左に三人、右に二人の男達が先を急いですれ違う。風に煽られる竹林と激しい雨と共に動きを感じさせる見事な構図だ。

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三条大橋
最後に京師の三条大橋に辿り着く。京師(けいし)とは漢字文化圏で帝王の都のこと、日本では京都。大尾(たいび)とは、終局、結末、(全くの)終わり。日本橋から12426町、約492kmで京の都まで。北九州の壱岐島で、広重の「東海道五十三次全図」を見ることになるとは妙な巡り合わせであった。

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「六十余州名所図会 壱岐志作」
これが壱岐を描いたという「六十余州名所図会 壱岐志作」(安政3年)。六十余州名所図会は七道六十八国の勝景・奇景を描いた六十九図からなる揃い物。後の大作「名所江戸百景」につなげた。「壱岐志作」は、長崎県北松浦半島の志佐辺りから、伊万里湾壱岐水道を経て、壱岐の島を遠望した図といわれる。『北斎漫画』七編「壱岐志作」からの転用と指摘されるが、広重は雪景に描き変えている。元々、広重は各地の風景画を数多く描いたが、実際に訪れて描いたものは少なく、各地の名所図会を参考にアレンジしたものが多い。この「壱岐志作」も、この地がそれほどの豪雪地帯ではないので、違和感を感じさせる。

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「八朔太夫図」と「市川團十郎の暫図」
こちらの広重肉筆画2点のうち、左は「八朔太夫図(天保後期1830-44)」。右は「市川團十郎の暫図(嘉永1848-54)」。

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原の辻一支国王都復元公園のジオラマ
一支国博物館の展示をじっくりと見て回ったので、次は原の辻一支国王都復元公園に向かうと、駐車場に原の辻ガイダンスという復元調査・整備の歴史を紹介する施設があった。他にも勾玉づくり、ガラス玉作りなどの体験もできる。大正12年(1923)に原の辻遺跡で地元教師が弥生土器や石器を発見したのが最初で、その後の発掘調査の資料が前身である壱岐・原の辻展示館に収蔵されていたが、平成22年(2010一支国博物館の開館に合わせて、リニューアルオープンした。原の辻一支国王都復元公園のジオラマがわかりやすい。

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魏志倭人伝対馬国一支国など
壁面には3世紀末に魏志倭人伝に書かれている対馬国一支国・末盧国・伊都国・奴国などの様子を解説している。とりわけ、一支国は「一大国」と書かれているが「一支国」を誤記したと考えられている。
 

一支国博物館2

 

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壱岐国分寺跡
初日の國片主神社のすぐ西にあった壱岐国分寺跡は、別名・壱岐嶋分寺跡という。奈良時代聖武天皇は全国に国分寺を建てるよう指示した。壱岐国では新たに建てず、統治者・壱岐直が建てた寺を壱岐国分寺に昇格させたと「延喜式」に記されている。寺の名も壱岐嶋分寺といった。当時、九州各地の国府、大寺などは太宰府と同じ瓦を使っていたが、壱岐嶋分寺の瓦は奈良の平城京と同じ瓦を使って建てられ、しかも大極殿の軒丸瓦とも同じことが判明し、壱岐国平城京との強い結びつきが指摘されている。

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安国寺、大般若経
足利尊氏は僧の夢窓疎石の勧めにより、亡き後醍醐天皇を弔い、戦乱で死んだ武士を供養するため、全国66ヶ所と2島に安国寺を建てるよう指示した。壱岐島では以前からある海印寺を安国寺に改めた。現在、老松山安国寺と呼ばれ、京都の大徳寺を本山とする臨済宗の寺院となっている。安国寺には高麗版大般若経初彫本(1046)が残されていて、国の重要文化財に指定されている。
 

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聖母宮所蔵、飴釉三耳茶壷
勝本浦にある聖母宮(しょうもぐう)は、延喜式式内社名神大と記される古社で、神功皇后三韓出兵が創建の起源とされるが、養老元年717)に社殿が建てられたことを神社の創建としている。聖母宮には、天正20年(1592)銘のある日本最古の唐津焼・飴釉三耳茶壷が所蔵され、長崎県有形文化財に指定されている。

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一支国ジオラマ
一支国の王都である原の辻を再現した巨大なジオラマ一支国トピックでは、160体の一支国人(弥生人フィギア)が、弥生時代の暮らしを楽しく伝えている。左側の祭祀のシーン、右側の生活のシーンなど七つのシーンが再現されている。

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一支国トピックの弥生人フィギア
一支国トピックの弥生人フィギアをよく見ると、小さいながらも一体一体、服装も行動も表情も豊かに表現されていて興味深い。

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カラカミ遺跡出土のイエネコの骨
一支国トピックの周りにも各地の弥生遺跡からのさまざまな出土品が展示されている。これは弥生時代後期(約20001700年前)のカラカミ遺跡から出土した日本最古のイエネコの骨である。文献資料からイエネコの伝来は、8世紀に経典などをネズミの害から防ぐために遣唐使が中国から持ち込んだのが始まりとされていた。それが弥生時代の遺跡からイエネコとネズミの骨が発見されて、渡来が500年以上も遡るとは驚きである。
 

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原の辻遺跡出土の人面石
こちらは弥生時代後期(約20001700年前)の原の辻遺跡から出土した人面石。石製の人面石は国内唯一の発見例。凝灰岩で作られ、両目は彫り込んで表現し、口は裏まで貫通させ、目の間には鼻が、目の上には眉が彫られ、頬は凹みで表現される。宗教が存在しないと考えられる弥生時代でも、先祖の霊などが信仰の対象だったのかと思われる。

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カラカミ遺跡出土の日本最古の文字線刻土器
こちらの遼東系瓦質土器は、弥生時代後期(約20001700年前)のカラカミ遺跡から出土した日本最古の「周」文字線刻土器で、中国大陸との交流が確認され、文字のない弥生時代の土器に「文字」が存在したことを裏付ける貴重な資料である。

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楽浪系瓦質土器と朝鮮系無文土器
左の楽浪系瓦質土器は、あな窯で焼かれて硬く、灰色に仕上がっているのが特徴である。右の朝鮮系無文土器は弥生土器と同じ野焼きの製法で製作されている。

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車出遺跡群出土の甕や壺、クド石
原の辻遺跡から西に5kmほどにある車出遺跡群からは大型の甕や壺が多く発掘された。甕を支える石製支脚=クドも多い。このクド石には、持ち運びしやすいように突起が付けられているのが特徴である。壱岐では竈のことを「クド」という。車出遺跡では、土器を廃棄した土器溜まり遺構から、丹塗り土器が大量に捨てられていることから、日用品ではなく祭祀用の祭器=威信具と考えられている。青銅鏡以外にも中国製の銅銭、青色ガラス玉、橙色のガラス玉、切目丸玉なども見つかっている。

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カラカミ遺跡出土の威信具
原の辻遺跡から北西に6kmほどにあるカラカミ遺跡からは、4枚の青銅鏡が発見されている。墓からではなく大溝内からなので、個人の威信具ではなく、祭器の一つとして大溝に廃棄されたと考えられている。墓の中から副葬品として発見される原の辻遺跡とは異なり、同じ弥生人でも青銅器の価値が違うことがわかる。車出遺跡同様、ここでも見つかる切目丸玉は、原の辻遺跡からは見つからないので、集落の関係が考慮される。カラカミ遺跡からは、1箇所だけでなく3箇所、4箇所と穴が開けられた穿孔土器が数多く発見されていて、孔が空いたから捨てたというより、祭祀を行った後に孔を開けて大量に廃棄する習慣があったと推測されている。また、鉄製品の他、地上式炉の跡や製作用具も発見されている。
 

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原の辻遺跡と犬の骨
原の辻遺跡は、長崎県で二番目に広い平野である「深江田原」にある。島内各地の山麓から湧き出た水が集まり、島内最長を誇る幡鉾川に合流する地に位置する。原の辻遺跡は丘陵の最頂部にある祭儀場を中心とし、丘陵尾根上に居住域が広がり、その周りを多重の環濠で囲んだ大規模環濠集落である。壱岐島は中国の歴史書魏志倭人伝』の一支国(一大国)と理解されていて、ここがその王都跡とされている。一支国では、動物の骨の中に犬の骨が多く見つかっている。猟犬として活躍する一方、切断された骨が出土することから、食材にも使われたのではと推定されている。

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壱岐島内遺跡出土の丹塗土器

今から2100年前の弥生時代中期後葉になると、北部九州を中心とした西日本一帯で土器に色を施す丹塗土器が流行した。壱岐島内でも多くの丹塗り土器が発見されている。主に祭器として祭祀の場で使われた。弥生時代後期にはかなり廃れたが、カラカミ集落では独自に進化した。集落内にベンガラ焼成炉を設置し、焼成前丹塗りを確立した。この工程を施すとほとんど色落ちしなくなり、さらに暗文を施すことで芸術性も高まった。高杯や鉢以外にも甕や壺など日常土器にも丹塗りを施すのが特徴である。カラカミ遺跡から日本最古のベンガラ焼成炉跡が発見され、鉄加工以外の土器作りにも長けていたことがわかった。