半坪ビオトープの日記

姫沼、野塚展望台

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姫沼
泊港の南東約2km、利尻山の北側標高約130mに位置する、姫沼は人工湖である。

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姫沼
姫沼の名は、大正4年に姫マスを放流したことに由来する。エゾマツ、トドマツが鬱蒼と繁り、コバルトブルーの沼の向こうには利尻山の勇姿が眺められるはずだが、まだ湧き上がる雲に覆われて残念ながら見えない。それでもかすかに残雪の白い筋がいくつか認められた。

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マイヅルソウ
沼の周囲には一周約800mの遊歩道が整備されていて散策を楽しむことができる。足元に生えるマイヅルソウMaianthemum dilatatum)の白い花が小さくてかわいい。深山の針葉樹林に多く自生する多年草で、葉脈の曲がった様子が、鶴が羽を広げたように見えるので、舞鶴草の名がある。小さな花は20個ほどあり、白い花被片4個は平らに開きそり返る。

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吊るし雲
北を眺めると、大きな吊るし雲が太陽に照らされて、光りながら動き回るのが異様な光景だった。記事を書く本日、富士山で見られた吊るし雲を、間近で見た貴重な体験だった。

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ツボスミレ
足元にスミレの花が咲いていた。スミレは種類が多く、いつも同定に苦労する。この花は北海道に多いエゾノタチツボスミレViola acuminata)と花の形は似るが、葉の先が細くならないので、ツボスミレ(Viola verecunda)であろう。

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クルマバソウ

 葉が輪生して白い花を咲かせているこの花は、クルマバソウ(Galium odorata)という多年草。葉は6〜10個が輪生し、基部に葉柄はない。北海道、本州の林中に生育し、朝鮮半島、サハリンからヨーロッパ、北アフリカに広く分布する。乾燥するとクマリンの芳香があり、ヨーロッパではウッドラフと呼ばれてハーブおよび民間薬として利用される。ドイツではヴァルトマイスター(Waldmeister)と呼ばれてビールやワイン、ジュースやケーキの香付けに使われる。

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ミヤマエンレイソウ
こちらのエンレイソウは、今まで見かけたオオバナノエンレイソウではなく、ミヤマエンレイソウTrillium yschonoskii)である。北海道〜九州の山地帯〜高山帯のやや湿った林下に生える多年草。前種の方が花弁が大きくやや丸みを帯び、上向きに咲くのに対し、本種の花は横向きに咲き、花弁もやや小さい。

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ツバメオモト
こちらの白い花は、ツバメオモト(Clintonia udensis)という多年草。北海道と奈良県以北の本州の山地帯〜亜高山帯の林内に生育する。葉は厚みがあり、倒卵状長楕円形で長さ1530cm、幅3〜9cmで、数枚を生じ全て根生する。花期は5〜7月、花茎の先に総状花序をつけ、花被片は6枚。周りのマイヅルソウの葉が紛らわしい。

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シロバナノビネチドリ
こちらの白い花は、シロバナノビネチドリ(Gymnadenia camtschatica f.albiflora)という多年草。北海道、本州中部以北、四国、九州の山地帯〜亜高山帯の林内や草地に生えるノビネチドリの白花種。葉は長楕円形で脈が目立ち、縁は波打つ。茎先に穂状花序を出し、白い花が密集して咲く。唇弁の先は3裂し、淡紅紫色の細い筋がある。

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ニワトコ

 姫沼の駐車場の脇でニワトコ(Sambucus racemosa subsp.sieboldiana)の花を見つけた。日本各地の山野に普通に見られ、高さは3〜5mの落葉低木だが、この若木は極端に低くてもしっかりと花を咲かせていた。

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ラナルド・マクドナルド上陸記念碑

 利尻島の最後に野塚展望台に行く。そのそばにラナルド・マクドナルド上陸記念碑があった。1848年、アメリカ人のラナルドは、日本に憧れ、捕鯨船で焼尻島に上陸したが無人島と思い、次に利尻島に上陸した。密入国者として捉えられた後、宗谷・松前・長崎と送られたが、収容先の座敷牢で日本人に英語を教え、日本初の英語教師となった。彼は上陸後十ヶ月でアメリカに強制送還されるが、1853年にペリーが黒船で来航した時、彼の教え子が通訳として活躍した。

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野塚展望台から眺めるペシ岬
野塚展望台から西を眺めると、鴛泊の街とその右手にペシ岬と灯台が認められた。

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ポン山
後ろ(南)をふりかえれば利尻山とポン山が見えるはずなのだが、まだ厚い雲に覆われて見分けがつかない。目の前の山が標高444のポン山で、その右手に利尻山が聳えているのだろうが、残念ながら利尻島はこれでおさらばだ。礼文島から眺めた勇姿を記憶に蘇らせて、6月初旬の礼文・利尻の旅を終え、帰途についた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポンモシリ島、夕日が丘展望台、ペシ岬

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ポンモシリ島
最終日は利尻島北部、鴛泊周辺を見て回る。まず最初に、富士野園地の沖に浮かぶポンモシリ島を見に行く。ポンモシリ(ponmosir)とは、アイヌ語で「小さい島」を意味し、その地名は北海道に十数ヶ所ある。

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富士野園地からポンモシリ島
富士野園地は標高1525mの崖の上に草原が広がり、エゾカンゾウの大群落地として知られる。100段ほどの階段を上がると展望台があり、目の前にポンモシリ島を眺めることができる。ポンモシリ島はクロユリの自生地にもなっている。

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夕日が丘展望台
右手(東)には夕日が丘展望台の岬が見える。岬の頂上は標高55mほど。この後登ってみる。

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ウミネコの卵
ポンモシリ島はウミネコが集団でコロニーを作るという。展望台周辺の草むらにはウミネコの卵の抜け殻がいくつも見られた。卵の長径は65mmで鶏卵より少し大きい。卵の表面には斑点があり、普通2個ずつ産む。5月に雛が生まれ、夏はウミネコの子育てのシーズンになる。

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エゾカンゾウ
エゾカンゾウHemerocallis middendorffii)は、6月中旬〜7月上旬に見頃を迎えるのだが、すでに咲き出しているものもかなりあった。

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夕日が丘展望台の右手(南)
夕日が丘展望台の右手(南)には利尻山が見えるはずなのだが、大きな雲に覆われてほとんど姿が見えなかった。

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センダイハギ
夕日が丘展望台に向かう草原にもエゾカンゾウはかなり咲き出していた。また、礼文島でも見かけた黄色いマメ科の花、センダイハギ(Thermopsis lupinoides)も咲いていた。

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夕日が丘展望台への急峻な断崖
夕日が丘展望台に登る道は崖沿いなので、急峻な断崖にウミネコのコロニーが認められた。

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富士野園地とポンモシリ島
標高55mの夕日が丘展望台からは、先程の富士野園地とポンモシリ島がはっきりと眺められた。

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ペシ岬と鴛泊の街

展望台から南東方向には、標高93mのペシ岬と鴛泊の街が眺められた。

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シコタンハコベ
泊港のすぐ北に海に突き出すように聳えるペシ岬への登り口近くの庭で見つけたこの花は、シコタンハコベStellaria ruscifolia)という多年草。北海道や本州中部地方の亜高山帯から高山帯の岩礫地に生える。利尻山の高所にも生えているが、これは栽培株である。

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ペシ岬に向かう道
ペシ岬に向かう道も細く左右に海が見える尾根のような道である。

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会津藩士の墓
途中に会津藩士の墓があった。会津藩は文化五年(1808江戸幕府よりロシアの襲撃に備えるため蝦夷地防備の命を受け、1600名が松前・宗谷・利尻・樺太に出陣した。利尻島には252名駐屯した。交戦はなかったが、病死や事故死で多くの藩士が亡くなった。ここには3基の墓が残されている。

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ペシ岬の断崖

ペシ岬も標高93mとかなり高い岬なので、断崖を見て、頂上を認めたところで引き返した。

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遠くに夕日が丘展望台
北を眺めると先程の夕日が丘展望台が遠くに認められた。
 

仙法志御崎海岸、沓形

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仙法志御崎海岸
雲行きが悪くなってきたが、もう少し観光してから宿に向かうことにする。ここは利尻島南端に近い仙法志御崎海岸、一帯は公園になっている。

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仙法志御崎海岸
かつて山から流れ出した溶岩流が固まった荒々しい海岸と、その向こうに利尻富士の景色が見事だというが、残念ながらその勇姿は見えない。

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仙法志御崎海岸
打ち寄せる怒涛が黒々とした岩場に当たって砕ける姿が勇ましい。手前の岩礫地に生えているのは、シロヨモギArtemisia stelleriana)である。北海道および本州の茨城県新潟県以北の海岸に自生する多年草。花期は8〜10月。全体が白い綿毛で覆われ、雪白色になる。

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ニウロコと周辺の澗
この辺りの「ニウロコと周辺の澗」は、北海道遺産に選定されている。袋澗(ふくろま)とは、漁獲したニシンを一時的に補完する港湾施設である。ニシン漁の盛んだった積丹半島利尻島では数多く存在したが、ニシン漁が廃れた後は船揚げ場や漁港に改造されて残されている場合がある。利尻島には35基の袋澗が存在した記録があり、西海岸のニウロコの周辺では溶岩流の岩場地形を利用し、安山岩の間知石を積み込んで堅固な袋澗が数多く造られた。

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仙法志御崎海岸

御崎公園では、袋澗を生簀のように改造して、アザラシのいる自然水族館として利用している。天気の良い日にはアザラシへの餌やり体験もできるという。

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仙法志御崎海岸
磯にいる海鳥はカモメだろうか。いつもカモメとウミネコが見分けにくいので困っている。よく見ると、嘴の先が黒で先端にわずかに赤も認められるので、ウミネコだとわかった。

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ハマナス
御崎公園の入り口近くでハマナスRosa rugosa)の花を見つけた。北海道および本州の日本海側、茨城県以北の太平洋側の海岸に生える落葉低木。夏に赤い花を咲かせ、果実は赤く熟し食べられる。根と樹皮は染料に、花はお茶に、また香水の原料に利用される。

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エゾカンゾウ
こちらの黄色い花は、エゾカンゾウHemerocallis middendorffii)という多年草。別名エゾゼンテイカというが、この仲間の分類は諸説入り乱れてどれが定説だかわかりにくい。エゾキスゲとよく似るが、エゾカンゾウの花は、花柄がほとんどないので見分けられる。

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ハマエンドウ

 

こちらの赤紫色の花は、ハマエンドウLathyrus japonicus)という多年草。日本各地の海岸に生える海浜植物。種小名がjaponicusとなっているが、アジア・ヨーロッパ・南北アメリカなどにも分布する汎世界種である。

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ミニうに丼
この日の昼食は、沓形でミニうに丼を味わった。ウニはとても美味しいので、ミニ丼でも十分満足できた。

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ホッケ定食
ホッケ定食もそれなりに美味しかった。

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海鮮セットメニュー
最後の夕食はホテルなので期待していたが、貧弱な海鮮セットメニューでちょっとがっかりした。
 
 
 

オタトマリ沼、南浜湿原

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オタトマリ沼

利尻島南部は、オタトマリ沼・南浜湿原・仙法志御崎海岸など利尻山を望む展望スポットが点在する。オタトマリ沼から眺める利尻山は、万年雪のあるヤムナイ沢を正面にするアルペン的山容というので、分厚い雲に覆われて姿が確認できないのは残念である。オタトマリ沼は爆裂火口の底が泥炭地となったもので、沼の周囲は爆裂火口内に発達した特異な湿原が広がっている。近年の研究では4000〜4500年前に湿原が形成されたと推測されている。オタトマリとは、アイヌ語のオタ・トマリ(砂・泊まり地)に由来する。

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オオアマドコロ
オタトマリ沼には、水鳥の舞う沼を一周する遊歩道もある。周囲約1.1kmで、所要時間は約20分。歩き始めてすぐ、オオアマドコロ(Polygonatum odoratum var. maximowiczii)を見つけた。花弁は合着、茎は弓形で丸く、アマドコロとよく似るが、葉を含めて全体に大きく、アマドコロの筒状花が1〜2個なのに対し、オオアマドコロでは2〜4個になる。よく見ると2個、3個、4個の花が認められる。アマドコロは日本全国に自生するが、オオアマドコロは東北および北海道に自生する。

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クロイトトンボのメス
黒いイトトンボを見つけたが同定が難しい。全身が黒く、胸部が黒と黄色なのが唯一の特徴であろう。胴が細いので、おそらくクロイトトンボのメスと思われる。

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ギンラン
こちらの小さなランの花は、ギンラン(Cephalanthera erecta)という多年草。日本全国の明るい林内に生育し、花期は5〜6月。葉は互生し、基部は茎を抱く。茎先に数個の白い小さな花をつける。

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ヤマドリゼンマイ
こちらのシダ植物は、ヤマドリゼンマイ(Osmundastrum cinnamomeum var.fokeiense)という。ゼンマイ属とは別属で、ヤマドリゼンマイ属という1属1種の植物である。日本各地の山地の湿原に生育し、往々にして群生する。若々しい黄緑色の栄養葉と赤褐色の胞子葉が別々に出る二形性が特徴的で目立つ。

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オオスギゴケ
こちらの苔は、オオスギゴケPOlytrichum formosum)。日本各地に普通に分布するスギゴケの仲間だが、花のように見える雄株が揃うと壮観である。

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イソツツジ
こちらの小さなツツジは、イソツツジLedum palustre var.diversipilosum)という常緑小低木。北海道および東北地方の亜高山帯や高山帯の岩礫地や湿った草地に生育する。高さは1m弱。エゾイソツツジともいう。

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アキグミ
こちらのグミの花は、アキグミ(Elaeagnus umbellata)という落葉低木。北海道の西部以南、本州、四国、九州などの日当たりの良い林道脇に広く生育する。4〜6月に花をつけ、秋に赤い実が熟す。果実は果実酒など食用となる。

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ナナカマド

こちらの白い花は、ナナカマド(Sorbus commixta)という落葉高木。日本全国の山地に生え、樹高は3〜12mになる。初夏に白い花を多数咲かせ、秋には赤く染まる紅葉や果実が美しいので好まれる。赤い果実は鳥の食用となるが、果実酒にも利用できる。

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オタトマリ沼

静かなオタトマリ沼には多くの鳥が群がり、思い思いに餌をとったり、休んだりしている。

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南浜湿原(メヌウショロ沼)
オタトマリ沼より2kmほど南西に南浜湿原(メヌウショロ沼)がある。利尻島最大の高層湿原とはいっても面積は6haほど。海のすぐ近くで海抜約5mの低層湿原でありながら、「ミズゴケ」が繁茂する高層湿原でもあるという、日本では類を見ない珍しい湿原といわれる。

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メヌウショロ沼の周りのアカエゾマツの林
メヌウショロ沼の周りにはアカエゾマツの林が広がる。南浜湿原(メヌウショロ沼)もオタトマリ沼とほぼ同様に形成されたと考えられていて、湿原の泥炭層は厚さ4mにも及ぶ。

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ミツガシワの間に白鷺
メヌウショロ沼の周りにはミツガシワ(Menyanthes trifoliata)の白い花がたくさん咲いている。その中に白鷺が立っている。正式にはシラサギという種名はなく、ダイサギチュウサギコサギとなっているが、大きさだけで区分けされているので、残念ながらこれはチュウサギだろうと推測するしかない。

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オオバナノエンレイソウ
メヌウショロとはアイヌ語で「遊水池のある湾」。爆裂火口が縄文海進で入江となり、その後の海退で沼となって取り残されたとされるが、名付けが縄文時代に遡るのか興味深い。この花は、オオバナノエンレイソウTrillium camschatcense)という多年草。北海道と本州北部の平地の草原から亜高山帯の湿地や林内に自生する。
 


 

利尻島、利尻町立博物館

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利尻島、神居海岸パーク
フェリーは利尻島北部の鴛泊港に着いたが、宿泊地の沓形に移動し、そこで車を借りて利尻島観光をスタート。初日は西から南を巡る。まずは神居海岸パークだが、残念ながら今年はオープンが遅れてまだ開設前だった。元船揚げ場を再利用し、ウニ取り、ウニ剥き、利尻昆布の土産作りなど、夏だけ開設する体験施設で、ウニや昆布を使った軽食も味わえるという。

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神居海岸
利尻島はまだ天候不順が続き、神居海岸近くの海も荒れていて、打ちつける波飛沫が磯を白く際立たせている。

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利尻町立博物館
利尻島南部にある利尻町立博物館では、利尻町の自然や歴史、利尻の人々の生活や文化などを知ることができる。館内は写真撮影OKなので助かる。

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昆布狩りの漁具:マッカ
玄関を入るとすぐにマッカという昆布狩りの漁具が展示されている。長さ約2.7
mで、昆布を巻きつけて根ごと引き抜く。道内各地でも使われている。

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利尻島の形成
利尻島は、名峰利尻山を中心とする周囲60k
mの、ほぼ円形の火山でできた島である。およそ1000万年前に土台ができて、約10万年前から1万年前に火山活動があったとされ、活火山に指定されている。東北から北海道の中央山地にかけてのびる火山帯から遠く離れた孤高の火山と言われる謎は、近年、太平洋プレートが屈曲して沈み込むという特殊な条件により形成されたことが明らかにされた。利尻各地に散在するポン山の「ポン」はアイヌ語で「小さい」を意味し、北部と南部に小高い丘がいくつかあり、前者は古い時代の溶岩ドーム、後者は新しい時代のスコリアと呼ばれる噴出物が三角錐状に積み重なったものだという。

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利尻山
最北の百名山、標高1721mの利尻山は、利尻富士とも呼ばれるように、いくたびにもわたる噴火により流れ出た溶岩や火砕物が積み重なってできた成層火山である。時期と場所により溶岩の粘り具合が一様でなかったため、見る方向によって景観は多様であると言われるが、残念ながら今回は厚い雲に覆われて利尻山の全容が見えなかった。

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利尻山のヤムナイ沢
礼文島から見た利尻山は北西面で、まだかなり多くの沢に残雪があったが、万年雪があるヤムナイ沢など、島内の多くの沢にはかつて氷河が存在したと考えられている。

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利尻島内で見られる動物
利尻島にはヒグマやエゾシカ、キタキツネや蛇は生息せず、海岸にはトドやゴマフアザラシがやってくる。島内で見られる動物は、イタチやシマリスなどの小動物だけである。例外として、2018年に北海道本島から約20km離れた利尻島に、ヒグマが泳いで上陸したという。

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利尻島内の遺跡
利尻島内には旧石器時代から擦文時代まで、約30ヶ所の遺跡が確認されている。沓形の亦稚(またわっか)貝塚から出土したトナカイの角には、クマやクジラと思われる動物が多数彫刻されていて、北海道の指定文化財に認定されている。

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亦稚貝塚と種屯内遺跡
亦稚貝塚と種屯内遺跡は、沓形港周辺の縄文時代後期から続縄文時代オホーツク文化期に形成された貝塚遺跡で、土器・石器・骨角器などの人工遺物が出土し、遠隔地との交流も証明されている。亦稚貝塚で出土した骨偶はセイウチの骨から作られ、オホーツク文化エスキモーの文化との類似が想定されている。

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種屯内遺跡から出土した人骨
種屯内遺跡の墓から出土した人骨は、屈葬で埋葬された若い女性で、歯が激しく磨耗していることから衣類に使う毛皮を歯で舐めしていたと推定されている。副葬品としてほぼ完形の土器が頭に脇に埋められていた。

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装飾された土器
装飾されたトナカイ角が出土した亦稚貝塚の同じ場所から発見された土器4点には、特異な装飾が見られる。特に右の土器には動物10個体が描かれ、希少例とされる。このように利尻島にはオホーツク文化の遺物が多いのが特徴である。

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ニシン番屋とヤン衆
こちらはニシン番屋とヤン衆。明治から昭和にかけてニシン漁の出稼ぎに来ていた若い衆とニシン番屋の情景が再現されている。手前には、今井家資料が展示されている。明治30年(1897)に今井三之助が大山文蔵から、漁場(漁業権)および鰊漁事業を購入した時の文書である。

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藤野家の資料
こちらは幕末に、西は宗谷・利尻・礼文、東は斜里・根室・国後・択捉と東西奥蝦夷地の大場所をその手に収め、松前第一の豪商と言われた藤野家の関連資料である。道内各地に残る史跡や建造物等の歴史資料により藤野家の足跡を探ることができる。

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藤野家の関連資料

利尻・礼文の場所請負人になった初代藤野喜兵衛は、近江国豪農の生まれで、天明元年(1781)12歳で福山(松前)に渡り、姉の夫に丁稚奉公し、寛政二年(1800)20歳で独立し、蝦夷地物産の売買運輸業を始めた。その後、余市・宗谷・利尻・根室樺太などへ場所請負人を広げ、松前第一の豪商となった。藤野家は明治以降も北海道・樺太で事業を幅広く展開した。稚内市の宗谷厳島神社をはじめ、道北には藤野家が開いた神社や寺院がいくつも残されている。

 

稚内港北防波堤ドーム、北門神社

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稚内港北防波堤ドーム
稚内港北防波堤ドームは、稚内港の防波堤の役割及び、稚内樺太を結ぶ鉄道連絡船(稚泊連絡船)の桟橋から駅までの乗り換え通路を兼用するために、1931年から五年かけて建設された。その後、稚内桟橋駅が開設され、乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだ。

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稚内港北防波堤ドーム
ドームの高さは約14m、長さ427m、古代ギリシア建築を彷彿とさせる70本のエンタシス状の柱列群は、斬新な印象を与える。設計者は土屋実。当時、北大卒三年の26歳で、北海道庁の技師であった。

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稚内港北防波堤ドーム
終戦後、線路は撤去されたが、防波堤の機能は維持され、1981年に全面改修された。現在は北海道遺産に指定され、周辺は整備されて公園となっている。

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スラッピージョー
昼食はハンバーガーレストラン:デノーズ。稚内で人気のB級グルメ:スラッピージョーを注文。直径20cmほどの巨大ハンバーガーに大量のチーズをかけた、アメリカ発祥の料理。二人で食べるのがやっとの大きさ。

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生牡蠣
夕食は、郷土料理店:北の味心竹ちゃん。生牡蠣は確か厚岸産だったと思う。新鮮で美味しい。

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生タコの唐揚げ
こちらは生タコの唐揚げ。この店はタコのしゃぶしゃぶが結構人気だそうだが、唐揚げもうまい。

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北門神社
翌朝は雨も上がり青空が見えたので散歩に出かけた。市街地の西の高台に広大な稚内公園がある。公園の北には氷雪の門があり、中央には開基百年記念塔が建ち、北方記念館もある。公園の入り口には北門神社が鎮座している。

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稚内稲荷神社
石段を上って一段高い境内の右手奥に社殿が建っているが、左手には小さな稚内稲荷神社が建っている。祭神として宇迦之御魂神を祀る。

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北門神社の社殿
右に参道を進むと、青銅製と思われる大きな鳥居が建ち、奥正面に北門神社の社殿が鎮座している。

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三吉神社
社務所の先、またもや左手に白い鳥居と白壁の小さな社殿が建っていた。末社の三吉神社で、祭神として三吉大神を祀る。

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北門神社の拝殿
北門(ほくもん)神社の歴史は古い。天明5年(1785)松前藩の場所請負人・村山伝兵衛が宗谷在駐の際、北門鎮護の守護神として天照皇大神を奉斎し、小社を建立して宗谷大神宮と称したことが創始と伝えられる。明治29年、現在地に社殿を移築し、武甕槌神事代主神を合祀して北門神社と称した。明治35年に社殿を竣工したが、明治44年、山火事のため焼失した。大正2年、社殿が再建され、昭和53年、社殿及び神輿殿が竣工遷座した。正面の大きな社殿が拝殿で、右に棟続きの建物が神輿殿。拝殿入り口には大祓の茅の輪神事の茅の輪が祀られている。

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拝殿内
北門神社の拝殿内には鏡が安置されている。祭神として、天照皇大神武甕槌神事代主神を祀る。

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本殿

拝殿裏手に続く本殿は木々に邪魔されてよく見えないが神明造である。

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稚内公園の展望台から眺める市内
北門神社の脇からさらに石段を上っていくと、稚内公園に入っていく。すぐに市街地を眺める展望台がある。稚内港を取り囲むように左手から北防波堤とそのドームが認められた。

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開基百年記念塔
稚内港から利尻島へフェリーで向かう時に、稚内市街地の上に連なる台地が眺められた。中央に高く聳える塔は開基百年記念塔である。1879年に宗谷村が設置されたことを稚内市の開基とし、1978年に100周年を記念して建てられた。海抜170mの丘の上に立つ高さ80mの鉄筋コンクリート造の塔の上部に展望室があり、ガラス越しに礼文島利尻島樺太まで見ることができるという。
 

稚内、樺太ノスタルジー

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稚内、日本最北端の線路のモニュメント
翌日、礼文島から利尻島へ向かう船が天候不順で欠航となったため、稚内へ渡って次の日の朝、利尻へ向かうことにした。利尻島のホテルは一日順延してもらった。稚内も雨天だったが、少しは観光できた。ここは稚内駅をくぐり抜けた、昔、樺太へ向かった線路に使用していた車輪止めと線路。今は日本最北端の線路のモニュメントとして復元されている。

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日本最北端の駅、稚内
稚内駅は日本最北端の駅であり、今は2012年にできた複合施設「キタカラ」の中の「道の駅わっかない」に併設されているため、改札を通らずに駅を眺めることができ、「日本最北端の駅」の標柱も目の前にできる。

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北の始発・終着駅
JR北海道宗谷本線の稚内駅は、JR九州指宿枕崎線枕崎駅から3,000km離れていて、
「北と南の始発・終着駅」のある都市として、平成24年に友好都市締結をしている。
ちなみにJR日本最南端駅は指宿枕崎線西大山駅である。

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稚内副港市場、樺太ノスタルジー、サハリン

稚内市は、北を宗谷海峡、東はオホーツク海、西は日本海に面し、宗谷岬から43km北にサハリン(旧樺太)を望む国境の街である。市内の稚内公園には「北方記念館」があり、日本最北の複合施設・稚内副港市場には樺太記念館が併設されている。ただし、訪問した日は二階の樺太記念館は休業中だったため、一階で「樺太ノスタルジー」や「稚内ノスタルジー」のギャラリーだけ見学した。日露戦争後の1905年に南樺太が日本領となってから40年後、1945年にソ連領となった。サハリン本島とクリル諸島を総称してサハリンと呼び、州都はユジノサハリンスク(旧豊原)。稚内市サハリン州の三つの都市と友好都市を締結している。街の名、稚内は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ「冷たい・水の・川」が略された名といわれる。

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樺太の町
40年間の日本統治時代に南樺太には多くの開拓者が入植し、いくつもの町が築かれた。1907年に樺太庁が大泊に設置され、翌年豊原に移転した。

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樺太の鉄道
樺太の鉄道は、1905年の樺太の楠渓から豊原間に軍需輸送のため敷設されたのが始まりとされる。その後も、1914年に川上線、1928年には豊真線、1937年には西海岸線の全線
が開業した。

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稚内樺太大泊間の鉄道連絡航路
1923年に稚内樺太大泊間に稚泊航路が鉄道省により、また翌年には稚内樺太本斗間には北日本汽船株式会社により稚斗航路が開設された。最北の鉄道連絡航路の誕生であった。

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稚内港駅
1923年の稚泊鉄道連絡船の開設により、稚内連絡船待合所は改修を進め、1928年に稚内港駅と改称された。その後、1938年に北防波堤構内に稚内桟橋駅ができてその役目を終えた。

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稚内〜大泊の連絡航路
稚内〜大泊の連絡航路は、夏は濃霧、冬は流氷が海峡を埋め尽くす困難があった。そのため連絡船は日本初の砕氷客貨船だった。

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稚内〜本斗の稚斗航路
稚内〜本斗の稚斗航路により樺太西海岸の開発はとりわけ盛んになった。ちなみに、本斗港は樺太唯一の不凍港といわれた。

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稚内桟橋駅
1938年、それまでの稚内港駅に替わり、北防波堤ドーム内に稚泊航路の引き込み駅として稚内桟橋駅が設置され、翌年駅舎が完成し正式に開業した。貨物保管庫や待合所、乗降客用ホームと貨車用のホームがあって、樺太との貨客の往来で賑わった。

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樺太水産業
樺太におけるニシン、マス、サケの漁業は松前藩統治時代から経営されていたが、1875年に樺太・千島交換条約でロシア領になった後も、日本人は漁業権を得て経営を続けた。1905年に樺太が日本領になると競争入札により漁業者を定めていた。

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樺太の漁業
樺太の東西両岸は世界でも屈指と言われる好漁場で、南樺太が日本領になった当初は、漁業が基幹産業だった。漁業の中心はニシン、マス、サケだったが、他にもタラやカレイ、カニ、ホタテなどがあり、捕鯨も盛んに行われた。