半坪ビオトープの日記

大膳神社能舞台、妙泉寺五重塔

大膳神社
新穂から南西に向かい、真野の国分寺の近くにある大膳神社を訪れる。大和飛鳥路に例えられた田園風景に鎮座する。創祀年代は不詳だが、式内社の御食神社の論社とする説がある。御食神は、宮中大膳三祭神の一座だったため大膳大明神と称され、衰退後に社号が忘れられたらしい。

大膳神社
大膳神社の祭神は、正殿に御食津大神、左殿に日野資朝卿、右殿に大善坊賢栄を祀る。御食津(みけつ)大神は、農業食饌の祖神、豊穣の守護神で、古来より産土神として崇敬されている。

大膳神社
縁起碑によると、正中の変1324)の折、日野資朝卿が佐渡に配流され、子の阿新丸は父子対面を求めてはるばる都から下向したにもかかわらず、ついに許されぬまま父刑死の無念を晴らすべく、城主・本間山城守の館に潜入し、その弟三郎を斬って本懐を果たした。その間、大善坊賢栄は、真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したが、その孝心の已み難きに感動してこれを扶け、さらに迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し、無事虎口を脱して帰京せしめた。山城守は激怒して大善坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて日野資朝卿と大善坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。

大膳神社能舞台
大膳神社境内にある能舞台は、現存する佐渡35ある能舞台の中で最古のものである。舞台は茅葺き、寄棟造で、弘化2年(1846)に再建された。佐渡能舞台のほとんどが雨風を避けるため戸が建てられているが、ここは年中開けられていて、舞台正面の老松に太陽が描かれた珍しい鏡板が目を引く。江戸時代、佐渡で主流となったのは観世流と宝生流だが、現在、佐渡の演能のシテ方は全て宝生流となっている。

妙宣寺仁王門
佐渡国分寺の近くにある妙宣寺は、日蓮宗佐渡三本山の一つで、山号は蓮華王山。承久3年(1221)開創と伝わる。佐渡に配流となった日蓮の弟子で、熱心な法華経信者となった遠藤為盛(阿仏坊日得上人)が開いたという。一説によると、遠藤為盛は順徳天皇に仕えた北面の武士で、1221年に承久の乱により佐渡に流された順徳天皇に従ったようで、1224年に上皇崩御すると出家して真野御陵の近くにて、妻の千日尼と共に、最初は自宅を寺として開いたとされる。文永8年(1271)に日蓮佐渡に流されると、訪ねて妻と共に弟子となったという。仁王門は三間一戸の八脚門で、茅葺の切妻屋根はとても風情がある。

妙泉寺五重塔
当初の阿仏寺は、嘉暦元年(1326)に雑太城付近に移り、蓮華王山妙宣寺と名乗った。その後、天正17年(1589)に現在地に移転。五重塔は、相川の長坂茂三右衛門と金蔵の親子二代を棟梁とし、30年かけて文政8年(1825)に建立されたものである。

妙泉寺五重塔
建築様式は和様の三間五重塔婆で、屋根は宝形造桟瓦葺、天辺に江戸風の相輪を備え、全高約24m、初層の各辺3.6mで、柱に杉材、上物に松材、組物に欅材が使用されている。残念ながら、各層に高欄や桟唐戸がなく、未完とされている。

妙泉寺五重塔
この五重塔は、逓減率が低く、組物は和様・禅宗様の肘木を混用し、初層の宇蛇腹を二重に折り上げ、上層を扇架にするなど意匠を凝らしている。心柱と四天柱を緊結するなどの創意工夫が見られる。佐渡唯一(新潟県でも唯一)という五重塔は、国の重要文化財に指定されている。

妙宣寺山門
妙宣寺の山門は、三間一戸の楼門で、入母屋屋根銅板葺である。

妙宣寺山門
山門の扁額には「阿佛房」とある。

妙宣寺本堂と祖師堂
参道を進むと本堂が建っている。文久3年(1863)の再建。12間四面の大堂で、島内最大の堂宇である。江戸期本堂建築の様式を今に残している。本堂の左隣には、祖師堂が建つ。明治13年(1880)の再建。6間四面三方縁造り。宗門最古の宗祖木像(文永11年(1274)在銘)並びに当山開山阿仏房日得上人、千日尼御前、捨身供養の木像を安置している。

妙宣寺番神
祖師堂の左手前に建つのは番神堂である。妙見大菩薩、日本国内三十番神加藤清正公を祀った堂である。加藤清正を神格化し、諸願成就、疾病退散などを祈る思想は、清正(せいしょう)信仰と呼ばれ、全国各地に見られる。

日野資朝の墓
五重塔の近くに日野資朝の墓がある。後醍醐天皇の正中2年(132512月、日野資朝北条高時のために佐渡に流され、檀風城に幽閉されること7年、元弘2年(1332)城主・本間氏は高時の命により資朝を処刑した。遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったと伝えられる。謡曲「檀風」は、正中の変に敗れ佐渡に流され、本間の館に預けられた大納言日野資朝に、熊野の山伏に預けられた一子梅若が一目会いに訪れ、再会後資朝は処刑され、梅若は本間を父の仇と思い討った事件を謡っている。資朝が本間の館雑太城で詠んだ歌から雑太城を檀風城と呼ぶようになった。雑太城跡に妙宣寺が建立され、日野資朝の墓と梅若の仇討ちの日の隠れ松の跡が残り、この地は謡曲「檀風」の舞台となり、佐渡市唯一の謡曲の史跡である。日野資朝の歌碑には「秋たけし檀の梢吹く風に澤田の里は紅葉しにけり」とある。

竹田本間氏の居城跡
境内は佐渡守護代竹田本間氏の居城跡なので、今も土塁や空堀が残っている。