半坪ビオトープの日記

二ツ亀、本間家能舞台

二ツ亀
大野亀から北東方向に、佐渡最北端の二ツ亀の姿が認められた。大野亀もそうだが、二ツ亀もあまりにも大きい巨岩なので、近づくより遠くから見る方が全体像が掴める。

二ツ亀
まるで二匹の亀が蹲っているように見える。干潮時には陸続きになる。大野亀から二ツ亀まで海岸線にそって遊歩道が続いている。途中、洞窟のある賽の河原も通る。3km強あるというから1時間はかかるだろう。遊歩道は二ツ亀からさらにその先の弾崎まで続いているそうだ。

二ツ亀
二ツ亀には、二ツ亀ビューホテル前の駐車場からホテル脇の階段を下って行かねばならない。高さ70mの段丘上から見下ろすと海食崖に囲まれた二ツ亀と佐渡本島とを繋ぐトンボロがはっきり見えて歩いて渡ることができるので、今が干潮であることがわかる。

二ツ亀
ホテル脇の階段は350段もあるので、景色を眺めながら休み休み降りて行く。

二ツ亀
二ツ亀周辺の海は、「日本の海水浴場100選」にも選ばれた、透き通ったきれいな海である。キャンプ場もホテル下にあり、海水浴場が開かれる夏季には海遊びの人々で賑わうそうだ。二ツ亀の表面にある縞模様が二ツ亀の誕生に関係する。大野亀と同じく、二ツ亀もマグマが地下で直接ゆっくりと冷えて固まったときにできた縦の筋ができている。

ニリンソウムラサキケマン
大野亀の時にも見かけた白と紫の花がここでも咲いていた。白い花はイチリンソウに見えるが、実はニリンソウAnemone flaccida)。よく似ているが見分け方は、①イチリンソウは葉柄を持ち、ニリンソウには葉柄がない。②イチリンソウの花径は4cmで、ニリンソウの花径は2〜3cm。③ニリンソウよりイチリンソウの方が葉の切れ込みが鋭く、ニリンソウの葉には白い班がある。④イチリンソウの花数は1つで、ニリンソウの花数は1〜4個だが、初めに一つ咲くことも多く、ニリンソウの一輪咲という。今回は③が決め手だった。紫色の花は、ムラサキケマンCorydalis incisa)。花は可憐だが、よく知られるように全草にプロトピンを含み有毒なので注意が必要。

両津カトリック教会
大野亀ロッジも二ツ亀ビューホテルもレストランは休業中で昼食は取れず、急いで両津に向かう。弾崎近くで南下をはじめ、内海府海岸を1時間ほど走って両津に着く。天主堂が青空に映える両津カトリック教会は、1879年にフランス人宣教師ドルワール・ド・レゼーにより創設され、焼失後の1887年にド・ノアイ宣教師により再建された教会。設計は日本の教会堂を数多く手がけたパピノ神父による。明治以降、佐渡キリスト教の拠点になった。

佐渡蛭子神社
カトリック教会の斜向かいに佐渡蛭子神社がある。由緒は不明だが、蛭子命事代主命を祭神とする。事代主神は、大国主命180柱いる子の神々の中でも特に信頼の篤かった神で、国譲りの際に釣りをしており、釣りの神が転じて豊漁の神となり、七福神の恵比寿様と同一視され、商売繁盛の神様として崇められることが一般的となっている。

蛭子神社
細い路地に立つ小さな社殿だが、夷という町名の由来となっている。明治39年(1906)に夷諏訪神社末社となった。社殿脇には恵比寿様の石像や道祖神が所狭しと並べられていた。

本間家能舞台
佐渡の能というと「世阿弥」かと思うが、能の大成者といわれる世阿弥佐渡島流しにあったのは1434年なのでその影響は少ない。佐渡に能が広まったのは江戸時代の初め。金山開発のために佐渡を訪れた初代佐渡奉行であり能楽師でもあった大久保石見守長安が、奈良から2人の能楽師を連れてきたことに始まる。現在、佐渡には30以上の能舞台があるが、ここ本間家能舞台は、佐渡で唯一の個人所有の能舞台である。

本間家能舞台
本間家は、戦国時代統治にあった城主の家柄とも伝えられ、戦乱の難を逃れた本間家の末裔・秀信は、寛永18年(1641)奈良で能楽を修めて帰着。慶安年中には佐渡奉行所より能太夫を委嘱され、爾来今日まで、佐渡室生流能楽の中心となっている。この能舞台は明治18年に再建されたといわれ、舞台建築には禅宗の影響を受けた唐様建築の扇垂木手法が用いられ、床下には音響効果を高めるため瀬戸産の甕が一対埋められているのも特徴である。新潟県有形民俗文化財に指定されている。

御能見所
定例能以外では一般公開していない。舞台の向かいには御能見所という、能を鑑賞する座敷がある。

椎崎諏訪神社
加茂湖を見下ろす高台に椎崎諏訪神社が建っている。信州諏訪大社の分神として永和2年(1376)に建立され、当地の地頭・久知本間家の守護神と伝わる。明治35年(1902)に建築された瓦葺き切妻造の能舞台での演能回数は島内最大という

加茂湖畔の宿での夕食
加茂湖畔の宿での夕食は、牛肉鉄板焼きのほか、ベニズワイガニやサザエの刺身などの海鮮づくし。