半坪ビオトープの日記

新穂歴史民俗資料館

加茂湖から眺める大佐渡山地
宿は加茂湖の南東部にあり、そこから眺める大佐渡山地は、最高峰の金北山(1172m)を中心に、左手に妙見山1042m)、右手にやや離れてドンデン高原が連なっている。加茂湖は周囲17km、面積4.9k㎡の、新潟県最大の湖である。昔は淡水湖だったが、明治36年(1903)、氾濫を防ぐため海と繋げたことで汽水湖になった。牡蠣の養殖が盛んに行われている。

牛尾神社
前日見た本間家能舞台のすぐ南に牛尾神社がある。延暦11年(792出雲大社より勧請創建と伝えられる古社であるが、明治32年(1899)の火災で焼失し、明治40年に再建された。拝殿の彫刻は精緻であり、能舞台佐渡で最大規模である。毎年薪能が開催される。社殿は鬱蒼とした杉林のかなり奥にある。これは裏参道の鳥居である。

新穂歴史民俗資料館
加茂湖の南に進むと、佐渡市新穂歴史民俗資料館がある。玄関脇には大きな杉の切り株が展示されている。新穂長畝にある気比神社境内にあった杉の切り株。平成3年(1991)の台風による風雨で倒れた。年輪は289あり、江戸時代の元禄年間から生きていたと推定される。

清水寺二十八部衆関連資料
この資料館には、玉造遺跡出土物やのろま人形などの民俗人形など新穂の歴史民俗資料が数多く展示されているが、特筆すべきは清水寺二十八部衆関連資料である。後ほど訪れる清水寺観音堂は、京都の清水寺を模した舞台作りで、元文元年(1736)の再建と言われる。壇上中央厨子内の本尊は千手観音立像で、その左右の階段状に設けられた脇段に二十八部衆が安置され、その尊像構成も京都清水寺に倣ったものである。二十八部衆は雷神も含めて現在29(内1躰は足と台座のみ)が遺存する。元は風神含めて30あったはずで、内1躰(迦楼羅:カルラ)は近世の補作と見られるが、他は本尊千手観音像と共に平安時代後期に遡る唯一の遺作として、また独特の形を持った作例として貴重とされる。

神母天
雷神を除くといずれも6070cmほどの立像で、ヒノキと思われる材の一木造りで、体部から突出した腕などは矧ぎつけている。穏やかな面相、胸の薄い細身の体型、浅く簡略な衣紋の彫りなど平安時代後期の彫刻の特色が明らかとされる。この像は神母天像と推定されている。神母天(じんもてん)とは、仏教を守護する夜叉で女神の一尊で、子供と安産の守り神、鬼子母神と同じとされる。

新穂の縄文遺跡
縄文時代中期にはすでに人が住んでいた新穂の縄文遺跡としては、装身具が出土した矢田ヶ瀬遺跡、垣ノ内遺跡、湖鏡庵遺跡などがある。

弥生時代の遺跡
弥生時代中期の島内稲作の発祥地としての遺跡や、専業的玉作り地帯だった遺跡など、弥生式土器の出土する遺跡もいくつかある。土師器遺跡、須恵器遺跡、古墳などの古代遺跡もある。

ホンドテン
こちらは大野亀手前の道路を歩いている姿を見かけたホンドテン。本来、佐渡島には生息していなかったが、野兎駆除のため1960-64年に移入・放獣された35頭が全島に繁殖し広まった。今は、佐渡島固有の亜種、サドノウサギの極端な減少を招いて問題となっている。

浄瑠璃人形芝居・説教人形
現在、佐渡で上演している人形芝居は、説教人形、のろま人形、文弥人形の三種類に大別される。その中で一番古い浄瑠璃人形芝居・説教人形は、享保年間(1716)新穂青木の須田五郎左衛門が、京に上って伝承を受け、説教人形の頭を持ち帰って一座を興したのが創始とされる。太夫による三味線の弾き語りの説経節に合わせて、一人遣いの人形で合戦者や人情物などを演じる。高幕形式の単純素朴な人形劇で、現存するのは新穂村瓜生屋の広栄座だけである。

のろま人形
のろま人形は、説教人形の幕間狂言として演じられてきた。一人遣いの突っ込み人形を操る遣い手が語る佐渡弁の巧みな台詞回しで、時事ネタや風刺も交えながら観衆の笑いを誘う。登場するのは道化役の木の助を主人公に、下の長者、お花、仏師で、演目は「生地蔵」、「そば畑」、「五輪仏」など喜劇性の強い物が中心である。どの話も最後に決まって失敗した木の助が着物を脱がされ裸になり、放尿し大爆笑の中に幕となる。

文弥人形
文弥人形は、文弥節という古浄瑠璃に合わせて遣うもので、延宝期 (1673-81)の岡本文弥の節を伝えたものとされる。盲人の座語りで伝えられ、明治3年に伊藤常盤一を太夫とし、人形遣い・大崎松之助が提携して高幕文弥人形を興し、後に御殿人形に改良され、衣装も近代化した。芸題は近松物が多い。

鬼太鼓
佐渡の鬼太鼓の起源は不明だが、延享年間(1744-48)の相川祭の絵図に鬼太鼓が描かれている。舞い方により相川系・国仲系・前浜系の三つに大別される。相川系鬼太鼓は、太鼓に合わせて舞う豆蒔き(翁)と薙刀を持った鬼と棒を持った鬼(あるいは武者)が登場する。相川から真野湾地帯に分布する。国仲系鬼太鼓は、新穂村潟上の関口六助が安政年間(1854-60)にそれまでの鬼舞を現在の鬼太鼓として完成させたといわれる。悪い獅子を鬼が退治する悪魔祓いの鬼になる。国仲から両津湾地帯に分布する。前浜系鬼太鼓は、太鼓と笛に合わせて二匹の鬼が向かい合って踊るもので、東北地方の鬼剣舞に似ている。小佐渡の前浜や赤泊などに分布する。

能面
佐渡の能が最も盛んだった明治時代には、島内の村の数と同じ200ほどの能舞台があったといわれる。その能面がいくつか展示されている。芸能関係のほかに、近代日本画の大家・土田麦僊の舞妓の画や母親が新穂の出身という山下清の画も展示されている。