半坪ビオトープの日記

道遊の割戸、選鉱場跡

道遊の割戸
高任神社の裏手から道遊の割戸が間近に見られる。割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達する。慶長6年(1601)、佐渡金山発見の一つといわれ、金鉱脈(道遊脈と呼ばれる脈幅約10m、長さ約120m、深さ約100mの優良鉱脈)を掘り進めるうちに、山が割れたようになった。中腹と地下部は、明治から平成元年の休山まで採掘が続けられた。

キクザキイチゲ
高任神社の周りに可憐な花がいくつか咲いていた。こちらの白い花は、キンポウゲ科イチリンソウ属のキクザキイチゲAnemone pseudoaltaica)。キクザキイチリンソウとも呼ばれる。北海道、本州の近畿地方以北に分布し、落葉広葉樹林の林床などに生育する。花期は3〜5月、白色〜紫色の花弁状の萼片を持つ花を一輪つける。花弁はない。初夏には地上部は枯れて、翌春まで地中の地下茎で過ごす。

オオミスミソウ(雪割草)

こちらのピンクの花は、キンポウゲ科オオミスミソウ (Anemone hepatica var. japonica)。別名の雪割草の方が有名。日本固有種で、新潟県を中心に本州の北陸から東北地方の日本海側に自生する。花期は4〜5月。花色は白色、紅色、紫色など変化が多い。

機械工場
高任神社から戻ると、高任立坑に隣接して大きな機械工場がある。昭和10年代に建設された建物で、国の重要文化財になっている。展示されている機械類は平成元年まで使用されていたもので、現在でも使用可能だという。現在の日立製作所は、元々日立鉱山の工作部門から発展した会社で、多くの工業技術は鉱山から発祥し、その後様々な分野に広がって日本の近代化に貢献したという。

バッテリートロッコ
機械工場の外側には、トロッコの軌道が残されていて、トロッコも何台か展示されている。この2トンバッテリートロッコには24個の蓄電池が搭載され、作業終了時に機械工場にて充電されていた。

道遊の割戸
道遊の割戸は、佐渡金銀山の中でも開発初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘り跡である。発見前には道遊山という標高255.9mの山だったが、中央部に見つかった鉱脈を掘り進めた結果、二つに割れた姿となった。江戸期には「青柳の割戸」と呼ばれていて、その景観が絵図や絵巻にも描かれていた。

道遊の割戸
金山発見の物語も残っている。鶴子(つるし)銀山の山師、三浦次兵衛・渡辺儀兵衛・渡辺弥次右衛門の三人が、山を越えて海岸伝いに鮎川(現、濁川)の河口を遡り、苦労の末ついに次々と鉱脈を発見したという。次兵衛は六十枚間歩、儀兵衛は道遊間歩、弥次右衛門は割間歩を稼ぐことになった。慶長6年(1601)7月15日のことだった。

搗鉱場(とうこうば)跡
帰りがけに道路の向こう側に得体の知れぬ風変わりな構造物が見えた。搗鉱場(とうこうば)跡である。掘り出された金鉱に水銀を入れてアマルガム(合金)として取り出す精錬法を用いて金だけを取り出す施設で、これだけ大きいのは当時の最先端技術だったと案内板にある。今はその基礎しか残っていないが、迫力のある貴重な施設だ。

浮遊選鉱場跡
金山を下って相川の町に入る辺りの北沢地区に、発電所やシックナーなど鉱山の近代化に貢献した施設群、浮遊選鉱場跡がある。元々は銅の製造技術であった浮遊選鉱法を金銀の採取に応用し、日本で初めて実用化に成功したもの。

浮遊選鉱場跡
相川の浮遊選鉱場は、戦時下の大増産計画によって大規模な設備投資が行われ、1か月で50,000トン以上の鉱石を処理でき、東洋一と謳われたという。隣接する煉瓦作りの建物は発電所である。

シックナー
シックナーとは、泥状の鉱石と水とを分離する施設である。不足する工業用水を確保するため、不純物は捨てられ、水は選鉱場で再利用された。直径50mで、国内最大規模の施設だった。

佐渡の西海岸から見る夕陽
佐渡初日は相川に宿をとった。佐渡の西海岸から見る夕陽は、噂に違わず雄大なものだった。佐渡の西に広がる日本海には陸地の姿はなく、地球の果てに沈む夕陽は、我々が大きな地球に住んでいることを実感させてくれる。