半坪ビオトープの日記

雷神社、銀山上神社

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雷神社の鳥居

豆酘(つつ)の集落の西を流れる乱川横の小道を北上すると、左側の森に小さな鳥居が見える。亀卜神事で知られる雷神社の鳥居である。

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雷神社の拝殿

さらに進むと小さな川向こうに小さな拝殿がある。式内社である雷(イカズチ)神社の祭神は、イカツオミ(雷大臣命)である。日本書紀によれば、仲哀天皇の死に際し、神功皇后は自ら祭主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を、神意を解釈する審神者(さにわ)とした。対馬の伝承では、神功皇后の外征を支えた有能な家臣のイカツオミ(雷大臣)は、神功皇后の凱旋後に対馬県主となって対馬に留まり、まず豆酘に館を構え、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされる。次に阿連(あれ)に移り、加志で生涯を終え、加志の太祝詞神社横に墳墓(中世の宝篋印塔)がある。豆酘には亀卜が残り、加志の太祝詞神社名神大社であり、阿連は「対馬神道」の著者・鈴木棠三から「対馬神道エルサレム」と称されるなど、イカツオミの痕跡が色濃く残されている。名称に「雷」「能理刀(のりと)」がつく神社では亀卜が行われていたケースが多く、対馬全島に分布している。亀の甲羅を用いる亀卜の起源は約3000年前に滅亡した中国最古の王朝・殷とされ、現在でも旧暦の1月3日、雷神社で神事が行われている。神事の奏上の言葉から、俗に「サンゾーロー祭り」とも呼ばれている。

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美女塚

対馬南端の豆酘の集落から北上をはじめて山深い峠に近づいた所に美女塚なる石碑が建っていた。美女塚には花が供えられ、右手には美女塚物語を伝える石碑がある。『昔、豆酘に鶴王という美しい娘が住んでいた。賢く親孝行な彼女はある時、采女として都へ召喚されることになった。年老いた母を残していく悲しみに耐えられず、都へ上る日、この場所で自らの命を断った。「美しく生まれたために、二人が哀しみに会うのなら、これからはこの里に美女が生まれませんように・・・」との言葉を残して世を去ったという。』

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久根田舎の石屋根

西海岸を北上して、対馬で一番高い山・矢立山649m)の西麓に位置する集落・久根田舎に着く。昔、多くの銀を産出した所で、安徳天皇陵墓(参考地)もある。ここにも石屋根の小屋がいくつか残されている。この後訪れる椎根の石屋根ほど立派ではないが、かえって素朴な雰囲気が漂っている。

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銀山上神社

久根田舎の県道から東にそれて細い道を山に向かうと、森の中に銀山上(ぎんざんじょう)神社が鎮座している。日本書紀天武天皇三年(674)に、対馬で銀が産出されたのが日本で銀を産した始まりと記されている。その銀山にゆかりのある神社である。

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銀山上神社

銀山上神社がある久根地区は、銀を朝廷に献上したことから、古代には大調(おおつき)と呼ばれていたという。律令制下での租税制度である租庸調の祖は米、庸は労役、調は絹や布の繊維製品を収めるものだが、地方特産品での代納も認められていた。大調とは、銀が調の中でも価値が高かったため、大いなる調(みつぎ)のことを指す。「延喜式」で対馬の調は銀と定められ、太宰府に毎年、調銀890両を納めるよう命じられていた。

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銀山上神社

対馬銀山のことは昔から外国にも知られていたらしく、寛仁三年(1019)に刀伊の入寇満洲女真族が賊船503000人で対馬壱岐・博多を襲った)の際に、銀山が襲われ損害を受けたと『小右記』に記録されている。その際、対馬で殺害されたのは36人だが、壱岐では百人以上が虐殺されている。

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銀山上神社の参道

続日本後紀』にある大調神に比定され、平安時代前期の承和四年(837)二月、従五位下を授けられた。

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銀山上神社の参道

苔むした鳥居をいくつもくぐり抜けて参道を進む。両側には木々やシダが茂り、昼間でも薄暗く感じる。

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銀山上神社の社殿

 銀山上神社の創建年代は不詳だが、宝物として、弥生時代後期の銅鏡六面、中世の銅鏡七面、弥生時代後期の広形銅矛の一部がある。祭神は諸黒神であり、式内二社の論社である樫根の銀山神社と同じ神。諸黒神対馬固有の神で、坑道の漆黒の闇を意味する、あるいは矢立山の別称・室黒岳に由来するとされるが、鉱山(かなやま)の神として異国から来た神だという伝承もある。室黒神とも呼ばれ、鉱山の開発にあたって、朝鮮半島から渡来した技術者がもたらした神だとも考えられる。近くの樫根や阿連には古代鉱山の坑道跡が残っている。

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銀山上神社の拝殿

相殿に安徳天皇を祀る。伝承では、安徳天皇は壇ノ浦にて源氏の包囲を脱出し、英彦山に潜伏して成人した。その後、島津氏の女との間に重尚、助国の二子をもうけた。二人は対馬に渡って宗氏となり、対馬の領主となった。安徳天皇対馬に迎えられ、久根田舎に皇居を定め、七十四歳で崩御したという。この近くに宮内庁が管理する安徳天皇御陵墓参考地がある。

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銀山上神社の本殿

江戸時代は御所大明神とも呼ばれ、寛永十二年(1635)の棟札には、「御所大明神 対馬島主平朝臣拾遺宗義成」とある。

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都々地神社

本殿右手に摂社の都々地神社があり、祭神として建彌己己命を祀る。建弥己己命(たけみここのみこと)とは、国造本記(先代旧事本紀)によると神武天皇の時代、高魂尊(たかみむすびのみこと)の5世孫である建彌己己命を津島(対馬)縣主としたとある。都々地神社は式内社「都々智神社」の論社の一つ。当地は矢立山の西麓で、この社は矢立山の遥拝所と考えられている。矢立山山頂には祭祀場跡が残る。矢立山は昔、都々智山と呼ばれていたが、後、垂仁天皇の后・狭穂姫を加祭して矢立山と称するようになった。狭穂姫は、古事記日本書紀にも語られているが、古事記によれば、兄の狭穂彦の反乱に巻き込まれ兄に殉じてしまうが、ここ対馬の伝承では、対馬に逃れて佐須川に忍び隠れ住んでいた。しかしある時、狩人が誤って狭穂姫の胸を射抜いてしまい、死んでしまった。その後祟りがあったので、これを祀り矢立山と呼ぶようになったという。