半坪ビオトープの日記

椎根の石屋根、銀山神社

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椎根の石屋根

久根田舎から西海岸を北上して椎根の集落に入ると、ここにも対馬特有の石屋根が見られる。石屋根を葺いている板石は、頁岩と呼ばれる石材で、美津島町浅茅湾の奥にある島山から船や牛で運ばれたものである。この石屋根の習俗が何時頃から始まったか不明だが、現時点で残されているのは、この西海岸の久根浜から久根田舎、上槻、椎根だけであり、椎根が最も多い。

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椎根の石屋根倉庫

椎根の石屋根倉庫は高床式だが人家には使用せず、米麦等の穀物と衣類、什器などが格納され、軒下は農作物や農漁具修繕の作業場として利用されている。母屋から離れた場所に設置されたのは母屋が火災に遭っても倉庫だけは残す配慮からである。

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椎根の石屋根

石の組み方は単純に大きい石の上に小さい石を積み重ねたもので、繋ぎは一切使われていない。倉庫も釘は使用せず、木と木の組み合わせのみで建築されている。高床にして大雨の浸水を防ぎ、虫除け効果もあるという。現在残っているほとんどが大正時代の建造で、県の重要有形文化財に指定されている。

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モンキアゲハ

石屋根を見学していた時、目の前の道路に一匹の蝶が舞い降りた。後翅に黄白色の大きな斑紋があるので、一目でモンキアゲハPapilio helenus)と分かる。黒色の羽が普通、裏では多少薄くなるが、この蝶は裏も黒々として色が鮮やかである。日本に分布する蝶としては、オオゴマダラナガサキアゲハと並ぶ最大級の種である。関東以西に生息する。

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銀山神社の一の鳥居

椎根の佐須川と集落の間に銀山神社が鎮座している。細長い参道には明神鳥居がいくつも並び建っている。石造の一の鳥居の額束には何も書かれていないようだ。

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銀山神社

木造の二の鳥居には銀山神社と書かれている。三の鳥居も木造である。

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銀山神社

石造の四の鳥居の神額にははっきりと銀山神社と彫られている。

 

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銀山神社の拝殿

式内社の銀山神社の論社で、社名は延喜式写本では「カナヤマ」「シロカネ」等があり、現在は「ギンザン」が普通となっている。両部神道の時代には六所大明神とも呼ばれたが、明治になって現社号に戻したという。一般に六所神社とは、令制国の総社の中で、管内の神社を統括して総社となったものを指す場合が多い。

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拝殿内

拝殿内は細長くなっていて、奉納された額などが掲げられている。

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金比羅神社

拝殿の左手には金比羅神社の細長い参道がある。

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銀山神社の本殿

銀山神社の祭神は、諸黒神とされ、地祇神が合祀されている。諸黒神対馬固有の神で、銀山上神社のところでも触れたが、坑道や鉱山に関連すると思われる。「特撰神名牒」によると金山彦命が祭神となっているが、カナヤマヒコ記紀神話の神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし、病み苦しんだ際、その嘔吐物(たぐり)から化生した神であり、鉱山や鍛冶の神とされる。

拝殿奥には流造銅板葺の本殿が続いていて、その左には小さな金比羅神社がある。金比羅神社は、香川県琴平町金刀比羅神社総本宮とする、大物主神を祀る神社である。農地が極端に少ない対馬では、穀物神としての稲荷が祀られることが少なく、代わりに漁業・海上交通の神である恵比須・金比羅が多く祀られている。

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宗助国の太刀塚

境内には「宗助国の太刀塚」がある。宗助国は宗家初代の島主で、元寇の際、激しく交戦し戦死した武将。この後訪れる小茂田濱神社に祀られている。

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立山古墳群

銀山神社から小茂田の集落に向かう途中に、矢立山古墳群がある。丘陵の稜線上に横穴式石室を具えた2基の円墳があり、約20mの間隔で南北に並んでいる。南の1号墳は早くに開口されていたが、金銅装太刀片が発見されている。墳丘の大半を流失している2号墳は、中央に平面T字形を呈する極めて特異な横穴式石室を設けていて、金銅装太刀、銅碗、須恵器の長頸壺などが出土している。1・2号墳は7世紀前半から終末にかけて営まれたとされ、新たに見つかった積石塚の3号墳はその後の築造とされ様相を異にするという。近くには銀山の坑道もあり、銀山との関連も指摘されている。