半坪ビオトープの日記

立山室堂

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玉殿岩屋の案内板

室堂山荘の右手に近づき左に曲がるところに、玉殿岩屋の案内板があった。立山火山が噴出した溶岩が冷却する際にできた板状節理が発達してできた二つの洞窟を玉殿岩屋と呼ぶ。立山開山伝説の聖地で、熊と白鷹を追って来た佐伯有頼に、熊が阿弥陀如来に白鷹が不動明王となって現れ、立山の開山を命じた場所とされる。立山室堂が建設される前は、立山修験道の行者の宿泊に使用されたともいわれる。中には石仏が数体安置されている。岩屋へ下る道は滑りやすい登山道で、積雪もあるため今回は行かなかった。

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立山室堂

室堂山荘の右手奥に立山室堂が建っている。現在残っている日本最古の山小屋で、加賀藩により1726年(享保11年)に再建されたものである。1980年代まで山小屋として実際に使用されていたが、現在は国の重要文化財となっている。「室」とは宿泊所を指し、「堂」とは宗教施設を表すもので、室堂は両方の役割を併せ持つ。解体修理の際の発掘調査から12世紀の宗教的遺物が発見され、立山における信仰や民俗の様子を伝える貴重な建物とされる。

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立山三山

すぐ裏手から眺める立山三山は、雪を冠って神々しさを増した勇姿を堂々と朝陽の中に輝いていた。右手の浄土山立山三山との鞍部、一ノ越という峠まで登るのに1時間ほどかかり、そこから一番近く見える雄山(3,003m)まで、さらに1時間というのがコースタイムだが、それは若者の場合だ。

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ヤマハハコ

道端にドライフラワーになった花を見つけた。キク科ヤマハハコ属のヤマハハコ(Anaphalis margaritacea)である。北海道と本州中部地方以北の山地に生え、花期は8〜9月。雌雄異株だが、普段はなかなか区別して見ることはない。雄株の頭花はほとんどが筒状の両性花。雌株の頭花はほとんどが雌花で、花冠は糸のように細く、伸長した花柱よりも短い。この写真でいうと、一番右下が雄株の雄花。頭花中央が筒状両性花で中心が平たく見える。その上の株が雌株で、頭花の花冠は糸状で細くバラバラに伸びている。

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佐伯有頼像

室堂ターミナルの3階には雄山神社の旧社殿が展示されているが、そこに至る階段踊り場に佐伯有頼像がある。平成13年の立山開山1300年祭にあたり、富山県郷土史家、故広瀬誠氏の発願により富山市呉羽山山頂に建立された、佐伯有頼少年の銅像のレプリカである。

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雄山神社峰本社の旧社殿(復元後)

こちらが雄山神社峰本社の旧社殿の復元後の姿である。雄山神社は三社からなり、立山町岩峅寺にある前立社壇、芦峅寺にある中宮祈願殿、雄山山頂にある峰本社の三社をもって雄山神社とされる。この旧社殿は万延元年(1860)に加賀藩が造営したもので、総檜造りで重量が約7tにもなる。平成8年の再建を機に麓の宮司宅に保管されていたが、平成25年に復元されてここに展示された。

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雄山山頂の峰本社旧社殿

雄山神社は霊峰立山を神体とし、雄山山頂の峰本社には伊邪那岐神阿弥陀如来)と天手力雄神不動明王)が祀られている。神仏習合時代には仏教色の強い神社で、立山修験の源だった。創建年代は不詳だが、社伝では大宝元年701)に景行天皇の後裔と伝承される越中国国司佐伯宿禰有若の子、佐伯有頼が受けた雄山大神の神勅を奉じて開山造営されたと伝える。また、大宝3年(703)に釈教興が勧請したとも伝わる。

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立山曼荼羅

室堂ターミナルに隣接して立山自然保護センターがあり、ライチョウ高山植物などの展示のほか、立山信仰の歩みも開設されている。平安時代の「今昔物語集」にも「日本国の人、罪を造りて多く此の立山の地獄に墜つと伝えり」との文言がある。立山曼荼羅(複製)でも、左に地獄が大きく描かれていて、立山地獄のイメージが強かったのがうかがえる。左上には閻魔大王が死者を裁く場面が描かれている。

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立山登山を支えた人々

立山信仰の歩みの年表で、古くから立山登山を支えた人々が紹介されている。立山芦峅寺岩峅寺には、ガイドの前身となる中語がいて、宿坊の僧侶に代わって案内役として活躍した。明治中には合計150人に制限された。宇治長次郎と佐伯源次郎と佐伯平蔵は、明治から大正時代の近代登山黎明期に活躍した山案内人である。昭和になると佐伯文蔵や佐伯富男などの立山ガイドが活躍して、立山信仰登山から立山登山ガイドへ変遷していった。