半坪ビオトープの日記

厳島神社、東廻廊


厳島神社の創建は、推古元年(593)佐伯鞍職によると伝えられている。仁安3年(1168)佐伯景弘が厳島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、現在のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営した。
幅4mの東廻廊に入ると正面には客神社の祓殿が、右手には御本社の祓殿が見え、その彼方には多宝塔が小さく見える。

御本社の祓殿の右手には、高舞台、平舞台があり、その右に右楽房や左楽房が見える。潮もかなり引いてきて、厳島神社の土台が見える。

通路にもなっている客神社の拝殿から本殿が見える。厳島神社の社殿の主要部は平安時代に造営されたが、その後二度の火災に遭い、現在の本社本殿は元亀2年(1571)、客神社は仁治2年(1241)の建築である。天井は折上げ小組格天井で、厳島神社で天井があるのは御本社と祓殿、客神社の本殿と祓殿のみである。客神社の本殿には祭神として、天忍穂耳命・活津彦根命・天穂日命天津彦根命・熊野櫲樟日命の5男神が祀られている。

客神社から東廻廊で角形に囲まれたところを枡形と呼ぶ。旧暦6月の管絃祭では、枡形に御座船や江波船が入り、船を廻すという。寝殿造檜皮葺の御本社の本殿や拝殿は、廻廊の屋根でよく見えない。

東廻廊から左(東)方向に目をやると、客神社の向こうに豊国神社(千畳閣)と五重塔が見える。廻廊の釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製のものを寄進したのが始まりといわれるが、現在のものは大正時代の青銅製である。手前の砂浜には、丸い池のような水たまりが認められる。厳島八景の一つで、潮が引くと現れる鏡の池である。

枡形から眺める構図は、社殿と大鳥居と海が一緒に収められ人気がある。

枡形の外側にある建物は、朝座屋と呼ぶ。屋根は東が切妻、西が入母屋造りで、三方に廂の間があり、寝殿造りの対の屋の特徴が見られる。昔は社家・供僧・内侍が祭典・会合の折に集まったところである。

朝座屋の対面右手にある橋は、揚水橋と呼ぶ。5mほどの短い橋で、東側中央にはみ出した「桟の間」から潮を汲む儀式があったという。
橋の左下に鏡池があり、その中の石を卒塔婆石と呼ぶ。約800年前、京都鹿ヶ谷で平家滅亡を企てた罪により、僧俊寛藤原成親らと共に鬼界ヶ島に流された平康頼が、京に住む老母を偲んで2首の歌を千本の卒塔婆に書いて流し、その内の1本がこの石の所へ流れ着いた。「思いやればしばしと思う旅だにも猶故郷は恋しきものを」「薩摩潟沖の小島に我ありと親にも告げよ八重の潮風」ちょうど厳島神社に参拝に来ていた僧によって都に伝えられ、程なく康頼は帰京を許されたという。
向こう側のソテツの右に見える灯籠は、康頼灯籠という。帰京を許された平康頼が厳島大神にお礼のため奉納したもので、宮島の中で最も古いものである。

東廻廊を廻り込んで進むと、祓殿と拝殿の間を突き進むことになるが、右にそれて海に突き出た右楽房や火焼前に向う。

右手に目を向けると、最初に通った客神社の向こうに豊国神社と五重塔が見える。