年末年始の、イタリアのローマ、フィレンツェ、ジェノヴァからフランスのニースとリヨンを訪ねる旅も終わりとなった。あとは飛行機の旅立つスイスのジュネーヴに向かう。ジュネーヴに着くとすでに暗くなっていて観光もままならない。夜のジュネーヴを少し散歩するだけだ。コルナヴァン駅前にはライトアップされたノートルダム聖堂が建っている。1852-57年に建設されたネオゴシック様式の教会である。
ジュネーヴはレマン湖の南端に位置するスイスの都市であり、ローヌ川がレマン湖に注ぐあたりにモンブラン橋が架かっている。
駅のある新市街から旧市街へ向かう途中、ローヌ川を横切るベルク橋を渡るときに眺めることができる、河畔の夜景も美しい。
ベルク橋を渡って旧市街に入ると、イルミネーションで明るく装飾されたフステリー寺院があった。改革派の教会であったが、現在は催事場になっているという。
トラムの走る大通り、大きなイルミネーションがいくつも飾り付けられて美しく輝いている。
イルミネーションはエーデルワイスの花を象ったものである。
拡大して見ると花びらも変化に富んでいる。
見る方向により花の形が変わって面白い。
ベルク橋の途中からルソーの銅像が建つというルソー島に渡る。16世紀には壁に囲まれた砦だったルソー島は、その後造船所として使われていたが、1832年に橋が造られ、ジュネーヴ市民であったルソーの銅像が作られると、その名に因んでルソー島と呼ばれるようになった。
1712年、ジュネーヴの時計職人の子として生まれたジャン=ジャック・ルソーは、生後9日で母を喪い、父方の叔母に養育された。10歳の頃、父が元軍人の貴族と喧嘩して剣を抜いたために告訴され、ジュネーヴから逃亡した。孤児同然のルソーは牧師に預けられ、徒弟奉公など不遇な生活を強いられ、非行少年となる。15歳の時出奔し、放浪生活を送った後、29歳のヴァランス夫人に世話を受けた。保護者であり一時愛人ともなったヴァランス夫人の元を、30歳の時に去ってパリに出た。パリのホテルで、生涯を共にすることになる女中テレーズに出会う。五人の子供ができるが、まだ無名で経済力のないルソーは孤児院に入れる。1750年、懸賞論文「学問芸術論」で入選、その後、41歳で大作「人間不平等起源論」、1762年には「社会契約論」、教育論「エミール」と三部作を刊行することになる。しかし、自由と平等を重んじ、特権政治やカトリック教会を否定するルソーの思想は危険思想とみなされ、パリ高等法院から逮捕状が出された。逃避行で立ち寄ったジュネーヴでも迫害され、1766年、ヒュームの案内でロンドンに滞在したが、被害妄想に悩まされてヒュームとも絶交した。フランスに戻ったルソーは「告白」などを執筆するが、フランス革命直前にパリ郊外で病死した。生涯貧困に見舞われ、自然と孤独を愛し、文明と社会を悲観的に捉えたルソーだったが、カントやフィヒテ、ヘーゲルなど、ドイツ観念論哲学を中心に、広く影響を与えた。
いよいよ旅行最後の晩餐だが、駅に近い、シェ・マ・クジヌ(いとこん家、Restaurant Chez ma Cousine Lissignol)というレストランで軽く済ませた。
先ずは、この店の自慢の若鶏半身の丸焼き(1/2 poulet à la broche)。この丸焼きには、トマトやピーマンなどを煮込んだバスク風ソースをかけることが多い。もちろん、ポンフリも別皿でついてくる。
ここでは2.8ユーロで、オプションの4種のソースから1種を選ぶことができる。バスケーゼソース、マスタードソース、カレーソースではなく、いとこん家風ソース(Sauce Cousine)を選んだら、ハーブの効いたソースが出てきた。
こちらは鶏肉のタイ風グリーンカレーソース(ココナッツベースのスパイシー)。ライスとサラダ付き。
鶏肉がメインの店だったが、子羊のタイム風味焼き(Agneau à la broche au thym)があったのでそれも頼んでみた。どれもみな美味しかった。
翌朝、コルナヴァン駅前のノートルダム聖堂を最後に、ジュネーヴを発って帰国した。