半坪ビオトープの日記

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)


元旦は朝早くからフィレンツェへ移動した。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅近くのホテルに荷物を預け、早速観光に出かける。駅前にサンタ・マリア・ノヴェッラ教会が建っているが、北から背面を見ると逆光である。寄木細工のような美しいファサードは南向きで、こちらからは見えない。

14世紀にドメニコ派の説教の場として造られた。内部には、マザッチョ(マサッチオ)による『三位一体』やロッビアの彩色テラコッタによる洗礼盤、左側のゴンディ家礼拝堂にはブルネッレスキの十字架、内陣部にはドメニコ・ギルランダイオによる『マリアとサン・ジョバンニの生涯』のフレスコ画などがある。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会には、礼拝堂を含め元日とクリスマスは入れないが、どういうわけかこの小さな礼拝堂だけ入ることができた。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の東側には、ウニタ・イタリアーナ(イタリア統一)広場があり、中央にはオベリスクが建っている。イタリア統一戦争の戦没者慰霊碑で、戦没者贈る言葉の石版や銅版が各面にはめ込まれている。ここから東へ市内観光を始めるのに都合よく、集合場所によく使われているそうだ。

最初に目に入るのはメディチ家礼拝堂である。サン・ロレンツォ聖堂に付属する「君主の礼拝堂」と「新聖具室」と呼ばれる2棟の建物の総称であり、16世紀から17世紀にかけて拡張建設された。八角形で高さ50mの「君主の礼拝堂」は、すでに政治権力を失ったメディチ家がその富と虚栄を誇示すべく建てた礼拝堂で、歴代トスカーナ大公家の墓所である。壁面は大量の彩色大理石と半貴石で豪華に飾り立てられている。ミケランジェロの設計による「新聖具室」は、ロレンツォ2世とジュリアーノの霊廟で、それぞれミケランジェロによる『夕暮』と『曙』、『夜』と『昼』の彫刻で装飾されている。

メディチ家礼拝堂に続くサン・ロレンツォ聖堂は、4世紀頃に聖ラウレンティウスに捧げられた教会で、フィレンツェで最古の教会の一つに数えられる。イタリア人建築家フィリッポ・ブルネッレスキが、トスカーナ大公家で聖堂のパトロンでもあったメディチ家の依頼で15世紀に改築して以後、メディチ家代々の菩提寺となっている。旧聖具室にはドナテッロ作の胸像があり、2階にはミケランジェロによるラウレンツィアーナ図書館がある。

聖堂脇には、ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ像がある。16世紀前半のメディチ家の一人。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。イタリアの傭兵隊長で、イタリア戦争では勇猛に戦い、後年「ルネサンス最後の傭兵隊長」と賞賛され、通称バンデ・ネーレ(黒隊長)と呼ばれる。

サン・ロレンツォ聖堂の先にフィレンツェの象徴といわれるドゥオーモがあるのだが、その前に美しい八角形の洗礼堂がある。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)付属の建物で、サン・ジョバンニ洗礼堂という。ロマネスク様式のもっとも重要な集中形式の教会建築の一つであり、その起源は4世紀から5世紀に遡る。現在の建物は11世紀に起工された。軍神マルスを祀ったローマ神殿が、洗礼者聖ヨハネのために奉納され直したと信じられていたという。屋根部分全体は1128年、司教座のある内陣は1202年に完成した。ここで洗礼を受けたダンテ・アリギエーリは、『神曲』地獄篇で「わが美しき聖ジョバンニ」と言及している。

内部の床は一面のモザイク模様、壁面は外装と同じく大理石による幾何学模様が施されている。天井は13世紀のモザイク画『最後の審判』の他、聖書にまつわる多くのモザイク画で飾られている。この東側の扉はロレンツォ・ギベルティにより1452年に完成したが、のちにミケランジェロが「天国の門」と呼んで賞賛したといわれる(レプリカ)。扉の上の彫刻『イエスの洗礼』はアンドレーア・サンソヴィーノの作である。

洗礼堂の南側の向かいには、ビガッロのロッジア(回廊)がある。1352〜58年にかけて、捨て子を保護するために建てられた。子供を育てられない人がここにその子を寝かせておけば、共和国が引き取り手を探してくれた。15世紀になってメディチ家がサンティッシマ・アンヌンチアータ広場に捨て子養育院を造ったが、それも同じような目的だった。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、フィレンツェ大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は花の聖母教会の意である。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。二重構造のドームで互いに押し合う設計になっていて、木枠を使わずに煉瓦を積み上げて製作している。1296年から140年以上かけて建設され、外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石により装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック建築に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、19世紀に完成したファサードはネオ・ゴシックによる混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m、聖堂の大きさとしては世界第4位で、約3万人が一堂に会することができる。

1876年から1887年にかけて建設されたファサードは、エミリオ・デ・ファブリスの設計による。随所に精巧な彫刻も施されていて、幾何学的な外観を眺めるだけでも時間がかかる。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作された。内部はゴシック様式で簡素とはいえ、ギベルティらが1432年から1445年にかけてデザインしたステンドグラスやベネデットマイアーノの十字架、ロッビアの彩色陶版による美しいレリーフなどで飾られている。大聖堂付属博物館にはミケランジェロによる『未完のピエタ』などが展示されている。

ファサードの右脇には、ジョットの鐘楼がそびえている。これは大聖堂の右側からみたところである。高さ84m、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られたゴシック様式の鐘楼である。1334年に工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンピオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐに建築を開始したが基底部分ができた時点で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降はフランチェスコ・タレンティが引き継いだ。1387年に塔は完成したが、当初計画された尖塔は造られなかった。象嵌や彫刻で飾られた基底部はジョットの構想によるもので、56枚のレリーフと16対の彫刻で飾られている。2階部分はピサーノ、さらに上の3つの階はタレンティの指揮による。特定日以外は塔の屋根部分まで上れる。

右側からサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を見て回ると、後ろに大きなクーポラが見上げられる。ブルネッレスキの設計による高さ90mのクーポラ頂上展望台まで、日曜日や特定日以外なら上れる。