半坪ビオトープの日記

シニョリーア広場、ヴェッキオ橋


大聖堂(ドゥオーモ)からヴェッキオ宮殿のあるシニョリーア広場に向かうと、狭い路地にダンテの家という建物がある。フィレンツェ出身の詩人であり、哲学者、政治家でもあったダンテ・アリギエーリの生家といわれる場所に3階建ての博物館として公開されている。ダンテが生きた13世紀の建物ではなく、約100年前に改築されたゴシック様式の建物である。中に入るとダンテの生活や亡命の紹介、当時の貴族の衣装の展示などがある。

ヴェッキオ宮殿の手前の小さなサン・フィレンツェ広場に面して、荘厳なオラトリオ教会(聖フィリッポ教会)が建っている。1640年にローマから来た聖フィリッポ会の修道士たちが当時のローマ法王ウルパーノ8世から、このフィレンツェの古い歴史地区を教会建設のために寄贈された。ここに聖フィリッポ修道会は教会や礼拝堂、修道院などを建てていった。1749年にはザノービ・デル・ロッソにより、石造りのファッチャータ(正面装飾)がバロック様式で建設された。2012年までフィレンツェの裁判所として利用されていたが、いまはフィレンツェ市が開催する展覧会などの会場に使用されたり、挙式セレモニーなどに利用されたりしている。

オラトリオ教会(聖フィリッポ教会)前からドゥオーモの方向を振り返ると、左手にバディア・フィオレンティーナ教会の尖塔が見え、その右側にバルジェッロ国立博物館の建物が見える。元はポデスタ宮殿と呼ばれ、その後、バルジェッロ宮殿となり、1865年より博物館となった。ミケランジェロ作の『バッカス像』、『聖母子像』『ダヴィデ像』や、バルテッロ作の『ダヴィデ像』など貴重な彫刻が展示されている。時間が許せばぜひとも見学したいところだ。

狭いサン・フィレンツェ広場からゴンディ宮殿を回り込むと、広いシニョリーア広場に出る。東側のヴェッキオ宮殿前から西をみると、右手にはコジモ1世の騎馬像があり、左手には大きなネプチューン像が立っている。真向かいの建物の1階にはシャネルの店がある。

広場の南にはメディチ家コジモ1世の騎馬像の先にヴェッキオ宮殿がそびえている。ヴェッキオ宮殿は、1299年から1314年にかけて、アルノルフォ・ディ・カンピオによって建設され、初めはフィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまで住居とした。1550年から1565年の間にジョルジュ・ヴァザーリにより部分的に改築された。現在でもフィレンツェ市庁舎として使われている。高さ94mの塔は、ヴェッキオ宮殿の建築家アルノルフォ・ディ・カンピオにちなんでアルノルフォの塔と呼ばれている。

コジモ1世の騎馬像は、息子フェルディナンド1世が、最初のトスカーナ大公であった父親を讃えるために発注した。騎馬像の作者ジャンボローニャは、それまで鳥や魚などの小動物の像ばかり作っていたので、大喜びした。馬は約4.5トン、騎士が約2.5トン、像全体でアフリカ象一匹の重さに匹敵した。数年要して製作された騎馬像は評判となり、ジャンボローニャに注文が殺到したという。宮殿前の海神ネプチューン像は、バルトロメーオ・アンマナトティ作のネプチューンの泉の中央に立ち、足元に4頭の馬を従えている。コジモ1世がオスマン帝国に対抗するため1562年にピサの南リヴォルノ港に海軍を創設した記念に造られたという。右手に見えるのは、ランツィのロッジアである。

ランツィのロッジア(回廊)は、シニョリーナ回廊とも呼ばれる。ランツィとは、コジモ1世治世下でこの建物をランツクネヒト(ドイツ人傭兵)が使ったことに由来する。幅広いアーチの3つの開口部はコリント式柱頭のある束ね付柱で支えられている。1376年から1382年にかけてベンチ・ディ・チョーネとフランチェスコ・タレンティにより建設された。屋根はあるが事実上、古代及びルネサンス美術の野外彫刻展示場となっている。左端の区画には、ベンヴェヌート・チェッリーニ作の銅像ペルセウス』があり、左手でメドゥーサの首を意気揚々と掲げたギリシア神話の英雄を描いている。ロッジアの柱の左手には、1865年にピオ・フェンディが制作した『ポリュクセネーの陵辱』という群像である。柱の右脇にはフィレンツェの象徴であるマルゾッコ(大理石の獅子像)があり、一番右の彫像『パトロクロスを抱きかかえるメネラウス』は、古代ローマの彫像を復元したものである。

右端に見える彫刻は、フランドル出身のジャン・ブローニュ(ジャンボローニャ)による『サビニの女たちの略奪』というマニエリスムの群像である。ヨーロッパの彫刻史上で、三人以上の群像の最初のものといわれる。他にもロッジアにはいくつかの大理石製彫刻がある。

ヴェッキオ宮殿のすぐ南隣りにはウフィツィ美術館があるが、翌朝鑑賞する予定で通り過ぎると、その先でアルノ川河畔に出る。右手下流にはヴェッキオ橋(ポンテ・ヴェッキオ)が見える。イタリア語で古い橋の意の通り、フィレンツ最古の橋であり、先の大戦を生き延びたフィレンツェ唯一の橋である。アルノ川のもっとも川幅の狭いところに架けられた橋だが、長さは85mある。三つのアーチ状の橋桁を二つの頑丈な橋脚で支える形は、当時のヨーロッパでは初めての試みだったという。

ヴェッキオ橋は河川の氾濫などで何度か立て直されており、現在の橋は1345年に再建されたものである。橋の上に宝飾店がずらりと建ち並んでいることで知られる。プッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』のアリア「私のお父さん」「お父様にお願い」で娘のラウレッタが「お父さん、もしリヌッチと結婚できないなら、私、ポンテ・ヴェッキオからアルノ川に身投げしてしまうから」と脅すのでも有名である。

ヴェッキオ橋の上は、両側に彫金細工店や宝石店が並び、東側にはヴァザーリの回廊が伸びているのだが、中央のテラスからはアルノ川の眺望が楽しめる。東の上流左手にはウフィツィ宮からヴェッキオ橋を渡ってピッティ宮まで約1kmも続くヴァザーリの回廊が認められる。肖像画のコレクションで有名だが、改築のため閉鎖中であった。

展望が開ける橋中央のテラスは見物客で溢れかえっている。西側にある胸像の前で記念写真を撮る人が特に多い。この胸像は、先ほどシニョリーア広場に面したランツィのロッジアで見た、『ペルセウス』像の作者、ベンヴェヌート・チェッリーニである。チェッリーニは元金細工師の職人出身であり、1800年代にヴェッキオ橋の上の金細工師の労働組合が「金細工師の父」を記念して胸像を建造したという。

西の下流を見やると、トリニタ橋が眺められる。ヴェッキオ橋の上からトリニタ橋を望む夕焼けは、フィレンツェでも有名な絶景とされる。トリニタ橋は、長く苦難の歴史を持つとされる。1259年、木造の橋が壊れ、石造りで再建された橋が1333年の洪水でヴェッキオ橋とともに流され、1415年にようやく再建されたが1557年にまたも流された。1570年に再建された橋も1944年に他の橋と同様、連合軍の進撃を止めようとしたドイツ軍に地雷により破壊された。大戦後の1958年に再建され、1608年に橋の四隅に置かれた四季を表す4体の像も、1961年には揃って元の位置におかれた。

ヴェッキオ橋を渡ると、アルノ川の左岸にあるルネサンス様式の広大なピッティ宮殿に至る。元旦はどこも閉館なので、ここも中には入れないが、二日後にまた訪れる予定で、ここで引き返すことにする。

ピッティ宮殿の斜向かいにある、マーブル紙で有名な店の扉の上に、「ドストエフスキーがここで1868年から1869年の間に『白痴』を完成させた」というプレートが貼ってあった。