半坪ビオトープの日記

首里城、守礼の門


最終日の午前中は、首里城を見て回った。琉球王国の象徴だった首里城は今では沖縄を代表する一大観光地であり、世界遺産にも登録されている。入り口の守礼門には、「守礼之邦」という扁額が掲げられている。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式の門で、古くは首里門ともいわれたが、庶民は「上の綾門(いいのあやじょう)」と愛称で呼んだ。第二尚氏4代目尚清王代(1527〜55)に初めて建立されたが、沖縄戦で破壊された。現在の門は昭和33年(1958)に復元されたものである。

守礼の門を入ってすぐの垣根には、タデ科アサヒカズラ(Antigonon leptopus)がピンク色の花を華やかに咲かせている。メキシコ原産のつる性半低木で地中にイモができ、食用にもなり、味はナッツ類に似るという。日本には1917年に入り、沖縄では露地で見事に咲き誇っている。
花の周りにはオオゴマダラ(Idea leuconoe)が優雅に舞っている。開長は13cmに及び、日本の蝶としては最大級で、蛹が金色になることでも知られる。東南アジアに広く分布し、日本では南西諸島に分布する。季節を問わず繁殖するので1年中見ることができ、フワフワと滑空するように飛ぶのと羽の模様から「新聞蝶」と呼ばれることもある。幼虫はキョウチクトウ科ホウライカガミやガガイモ科のホウライイケマの葉を食べ、いずれもアルカロイドを含んでいて、幼虫から蛹や成虫にもその毒が含まれ、他の動物から捕食されることを防いでいる。目立つ体色は、余裕を持ってわざと警戒色を周囲に知らせている。

守礼の門をくぐると左手に園比屋武御嶽石門があり、その石門の背後に園比屋武御嶽がある。この御嶽は国王が各地を巡行する旅に出る際に必ず礼拝した場所であり、また聞得大君が就任する時に最初に礼拝した、いわば国家の聖地だった。王家尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し祀っている。園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏第3代王の尚真の時に造られた。沖縄戦の戦禍で一部破壊されたが、1957年に復元された。

石門の先を右手に進むと歓会門がある。首里城は外郭と内郭により二重に囲まれているが、歓会門は外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で「喜ばしいこと」を意味する。

歓会門の創建は尚真王代(1477〜1500頃)で、沖縄戦で焼失したが1974年に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓が載せてある。

歓会門をくぐると幅広い石段を上って瑞泉門に向かう。

石段の右側には、龍の口から湧水がほとばしる「龍樋」がある。この水は王宮の飲料水として使われ、中国皇帝の使者・冊封使琉球を訪れた際、那覇港近くにあった「天使館」という宿舎まで毎日ここから水を運んだという。龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。

瑞泉門の瑞泉とは「めでたい泉」という意味だが、「龍樋」の湧水に因んで名付けられた。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。創建は1470年頃で沖縄戦にて焼失したが、1992年に復元された。形はアーチ状の石門の歓会門とは異なり、双璧の門の上に直接櫓が載っている。

第三の門は漏刻門で、別名「かご居せ御門」ともいう。当時、身分の高い役人は籠に乗って首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所から下りたという。創建は15世紀頃である。門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったという。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナ及び右掖門で同時に大鐘を打ち鳴らし、城内及び城外に時刻を知らせた。この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されている。

漏刻門をくぐって左下を見下ろすと、すぐ下に久慶門が見える。久慶門は別名「ほこり御門」ともいう。歓会門が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ行幸するときなどに使用した門であった。創建は尚真王代(1477〜1526)といわれ、1983年に復元された。久慶門の左手先には、先ほどくぐった歓会門が認められた。 

ようやく第四の門、広福門をくぐって下之御庭(しちゃぬうなー)という広場に出る。ここに首里城正殿のある「御庭」へ入る最後の門、奉神門が建っている。1562年には石造欄干が完成したという記録があることから創建はそれ以前とされる。明治末期頃に建物は撤去されたが、1992年に復元された。別名「君誇御門」ともいう。向かって左側は「納殿」で、薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側は「君誇」で、城内の儀式のとき等に使われた。中央の入口は国王や中国からの冊封使等身分の高い人だけが通れる門であり、それ以外の役人は両側の門から入城した。