半坪ビオトープの日記

恐山、地蔵殿


霊場内には温泉が湧き、湯治場としても利用される。塔婆堂の右手には、古滝の湯と冷抜の湯と二つの温泉棟がある。右奥の冷抜の湯は女性専用で、左の古滝の湯は男女入替制だが、この日時には女性用となっていた。ともに白濁した硫化水素含酸性緑ばん泉で、冷抜の湯は神経痛、リウマチなどに、古滝の湯は胃腸病に効くという。昔は、参拝客全員この湯で身を清めてからお参りしたといわれている。

参道の右手には薬師の湯がある。こちらは男性専用で、眼病などに効能があるという。ヒノキの湯船にうっすら湯花が漂い、硫黄の匂いがきついが、よく温まって心地よい。薬師の湯の右手にある宿坊「吉祥閣」のさらに右奥にある、切り傷に効くという花染の湯は混浴であるが、離れているので省略した。

参道の正面には、地蔵山(331m)を背にして祈願・祈祷の道場とされる地蔵殿が建っている。恐山の案内によると、地蔵殿本尊の伽羅陀山地蔵大士、地蔵殿の北に祀られている奥の院不動明王、釜伏山奥の院に祀られている釜伏山獄大明神の三聖地を参拝することによって満願成就されるという。

伝承によれば恐山菩提寺は、貞観4年(862)、天台宗の慈覚大師円仁が、一羽の鵜に導かれてこの地に至り、地蔵尊を祀ったのが始まりという。文化7年(1810)再刊の『奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起』によれば、円仁が唐に留学中、「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に至れば霊山あり。地蔵大士一体を刻しその地に仏道を広めよ」という夢告を受けた。円仁はすぐ帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩き、苦労の末恐山にたどり着いたといわれる。その中に地獄を表すものが108つあり、すべて夢と符合するので、円仁は6尺3寸の地蔵大士(地蔵菩薩)を彫り、本尊として安置したとされる。
かつては天台宗寺院だったが、享禄3年(1530)に田名部円通寺の僧・覚聚が再興して以来、円通寺別当所とする曹洞宗寺院となった。

地蔵堂の内陣には本尊の地蔵菩薩像を始め、脇侍の掌善地蔵・掌悪地蔵、円空作木造十一面観音立像・木造観音菩薩半跏像などが収められている。地蔵堂正面の扁額には「伽羅陀山」と書かれている。

地蔵堂の右手には事務所に続く回廊が伸びているが、曲がり角の向こうに薬師堂の屋根が少し垣間見られる。薬師堂の裏手には降魔石があるという。

地蔵殿から山門を振り返ってみると、正面彼方に恐山の最高峰・奥の院釜臥山が見える。山門の屋根の右端の先に、塔が見える山である。

地蔵殿の左から草木の生えない荒涼とした岩場の間をぬって歩く地獄めぐりが始まる。

案内に従って坂道を上り始めると、まず目につくのが納骨塔である。恐山では分骨する習慣が永く続いていて、1年以内に亡くなった人の歯や骨を納めるという。納骨塔の後ろに三つの大石が寄り集まっているが、それは大王石と呼ばれている。

南に目を転ずると、荒涼とした砂礫の山の向こうの高みに延命地蔵尊が立っているのが見える。その彼方には三角形の山姿が美しい大尽山が聳えている。

さらに進むと道端に大石があり、みたま石と名付けられている。両手で撫でながら祈ると願いが叶うという。

どこを向いても荒涼としていて、あちらこちらに火山ガスが噴出している。硫黄の強い臭いが辺り一面に漂う。腐食した賽銭が見られるのも火山ガスの影響である。この辺りは無間地獄とよばれるようだ。

南には草木も生えない地獄が広がるとはいえ、北の山に近づくと岩陰にイソツツジ(Ledum palustre ssp. diversipilosum var. nipponicum )が花開いていた。北海道南部や東北地方の亜高山帯に分布する常緑小低木で、花期は6〜7月とされるが、9月下旬でもいくつか遅れて咲いていた。