半坪ビオトープの日記

恐山、宇曽利湖


恐山菩提寺は宗派にとらわれない地蔵講を中心とする信仰集団を持ち、延命菩薩信仰として、地蔵信仰に基づく死者供養の場として受け継がれてきた。しかし、境内に残るものでは、供養のために建てられた寛文9年(1669)の石碑が最古であり、その頃から発展し始めたと考えられている。18世紀初頭に刊行された寺島良安著『和漢三才図会』には、「焼山」として取り上げられ、慈覚大師円仁が1000体の石地蔵を製作したこと、寛文年間に円空がその補修をしたこと、山頂には三途の川や賽の河原があることなどが記され、恐山の知名度が上がったとされる。
やがて風車に取り囲まれた慈覚大師堂が高みに建っている。

大師堂の右手に建つ細長い塔は、慈覚大師が断食三昧の行を修め、最初に説法した大師説法の地とされる。この辺りが、釜臥山がもっともよく見える所であろう。

地獄めぐりの道からさらに西北に離れた再奥の山際に、八葉塔という大きな石仏が見える。この地方の分骨の風習により奉納された骨を、八葉のレンゲに囲まれた半跏姿の地蔵菩薩像の下に安置する場所で、以前は塔だったものが入りきれなくなって平成11年に改造したものである。

道端に本山栄一の歌碑がある。本山栄一は、明治40年下北郡大湊町で生まれ、大湊の製材所で働きながら東奥日報の歌壇に投稿を続けて歌人となり、大湊文化協会の設立に奔走した。
「人はみなそれぞれ悲しき過去持ちて賽の河原に小石積みたり」栄一

ようやく西の外れの八角円堂に着いた。八角円堂は死者が降りてくる場所といわれ、お盆が近くなると下界でも不自由しないようにと、裏手の木々に手ぬぐいが結びつけられる。 

堂内には死者がいつ来てもよいように家族を失った遺族が収めた一揃えの服がたくさん納められている。最近は亡くなった人の好物を納める人も多くなったという。

八角円堂のすぐ先に血の池地獄がある。血の池地獄といっても赤味を帯びた石に囲まれた池にすぎず、水が赤いわけではない。

地獄めぐりの道端のいたるところに、小石が積み上げられた賽の河原がある。宇曽利湖畔に至ると、震災慰霊塔が建っている。東日本大震災で亡くなった方の供養のために建てられたもので、地蔵尊の左右には、希望の鐘と鎮魂の鐘が設置されていて鳴らすことができる。

宇曽利湖畔の砂浜は白く細かく、蒼い湖水とともに南国の海岸を連想させる。休憩所もあり、極楽浜と呼ばれる。宇曽利湖は、恐山山地の剣山の噴火で形成されたカルデラ湖で、外輪山に端を発する流入河川は十数本あるが、流出河川は北の津軽海峡にそそぐ正津川の1本のみである。流入河川に強酸性のものがあり、湖底から硫化水素が噴出して湖水に溶解しているため、水質はpH3.5前後の強酸性となっている。宇曽利湖に生息する魚類はウグイ1種のみだが、世界中の魚類の中でもっとも酸性度の強い湖に住む魚類とされる。
宇曽利湖を取り囲むように外輪山が見渡せるが、富士山のような姿が美しい山は大尽山(おおづくしやま、828m)である。

大尽山の左手の外輪山の合間に、塔の建つ山が見えるが、それが恐山最高峰の釜臥山(878m)である。

地獄めぐりの随所に水蒸気や火山性ガスの噴出箇所があり、ガスによって荒涼とした岩や砂礫の連なるところに色々と名前が付けられている。無間地獄に塩屋地獄、賭博地獄に重罪地獄、金堀地獄にどうや地獄。ここは修羅王地獄と呼ばれる。このまま進めば五智如来に至るが、左に上がって延命地蔵尊の高台から境内をもう一度眺めてみることにする。

やはり境内は菩提寺地蔵殿を中心に、主に右手に大きな宿坊や湯殿が並び、左に地獄めぐりの荒涼とした岩場が広がっている。

最後にもう一度延命地蔵尊を仰ぎ見て、恐山のオドロオドロした霊場を後にする。