半坪ビオトープの日記

槵觸神社、四皇子峰


高千穂町役場の東にある槵触山の中腹に、槵觸(くしふる)神社が鎮座している。天孫降臨の地といわれる「くしふるの峰」とはいうものの槵触山とか槵触岳の名が地図に載っているわけではなく、槵觸神社の低い裏山を槵触山と呼んでいるだけのようだ。

古くは「櫛ひ大明神」や「くしふる大明神」と称せられ、また「二上(ふたかみ)神社」、「高智保皇神社」とも呼ばれており、明治4年(1871)に「二上神社」を正式社名としたが、同43年に「槵觸神社」に復した。鬱蒼とした社叢の中、参道の石段の上に槵觸神社の社殿が認められる。

本来は槵触山そのものを神体とするが、現在は本殿を構えて天津日子番邇邇杵命を主祭神として祀っている。創祀は不詳だが、槵触山を神体山とするため長く本殿を持たなかった。槵触山は天孫降臨聖蹟と伝え、『日本書紀』神代巻下の天孫降臨段第1の一書に見える「高千穂の槵触之峯(くじふるのたけ)」や、第2の一書の「槵日高千穂之峯」、『古事記』の「筑紫日向高千穂之久士布流多気(くじふるたけ)」、『日向国風土記逸文の「高千穂の二上の峯」に比定され、古来霧島山とともに天孫降臨の有力な比定地とされ、霧島神社と並び称された。元禄7年(1694)に社殿建立を熱望した高千穂神社神官田尻氏が延岡藩主・三浦明敬の援助を仰ぎ、高千穂18郷の郷民の協力の下、初めて社殿が建立した。その後、藩主内藤氏も神事料を奉納などしている。昭和58年に約300年ぶりの造営が行われ、拝殿・本殿等の造営が完成した。拝殿は27坪の入母屋造で、本殿は10坪の流造である。

主祭神として天津日子番邇邇杵命を祀り、相殿に天児屋根命・布都恕志命・布刀玉命・建御雷命(武甕槌命)を祀っている。古来より高千穂神社の春祭りに対して秋祭りを行うなど、同社と密接な関係を持つとともに、社殿を持たぬながらも高千穂郷88社の一つに数えられて旧三田井村々民から崇められていたが、三田井氏の滅亡とともに荒廃した。

武神としての信仰が厚い武甕槌命が祭神となっているが、天孫降臨の前に行われた「国譲り」において、武甕槌命建御名方命が行った力競べが相撲のルーツとされ、秋季大祭では何百年も続いている奉納相撲などが行われる。本殿は3間社流造銅板葺で、棟に千木・鰹木を置く。

本殿側面の虹梁上下の彫刻は、特異な意匠でかなり立体的に構成され、町の有形文化財に指定されている。

神社周辺は神話史跡コースの遊歩道が整備されていて、高天原遥拝所や四皇子峯を巡ることができる。

槵觸神社の裏手を右(東)に下り、人影の全くない薄暗い上り坂の遊歩道を進むと、風土記・万葉の丘に出る。左手に高千穂碑があり、右の奥に川田順の歌碑が立つ。高千穂碑は、天孫降臨の地高千穂の伝承を顕彰するため、郷土史家の甲斐徳次郎の提唱により、昭和41年に建立された。万葉の古歌や日向風土記逸文と訳文などが刻まれている。アララギ派歌人川田順は、昭和30年に高千穂を訪れ、次の歌を詠んだ。「はろかなる神代はここに創まりぬ 高千穂村乃山青くして」

さらに遊歩道を上りつめていくと、小さな丘の上に高天原遥拝所がある。

天孫降臨後、八百万の神々が集まり、高天原を遥拝した場所であると伝える。

遊歩道を少しずつ下って行くと、四皇子峯(しおうじがみね)にたどり着く。神武天皇とその皇兄弟、五瀬命稲飯命三毛入野命の4柱の降誕地で、正面に板で囲われた御陵があり、右手前に石碑が立つ。彦火火出見尊の御子鵜鵝草葦不合尊は玉依姫と結婚し、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)を含めた四皇子が生まれた。建国神話によると、神日本磐余彦尊は、45歳の時日向から大和に進軍し、橿原宮で初代天皇に即位したと伝えられる。また、神功皇后三韓征伐に際して、7日7夜の戦捷を祈願した場所であるとも伝える。ここから右手に下って行くと、先ほどの槵觸神社の鳥居に至る。