半坪ビオトープの日記

彦根城周辺


天守を見学した後、北東にある黒門へ向かうため黒門山道を下り始めると井戸曲輪がある。弧状に築かれた小さな曲輪の北東隅には塩櫓が築かれ、周囲は瓦塀が巡っていた。塩櫓のそばには方形と円形の桝が現存しており、石組み溝で雨水を浄化し貯水する井戸と考えられている。曲輪の上下の石垣は、高さが10mを越える高石垣となり、黒門からの侵入を防ぐ堅牢な構造となっている。

黒門山道には仕切り石垣があって、本丸に容易く向かうことを防いでいる。

黒門に近くなると石垣の高さは19.4mにもなる。人気のない長い山道を何度か折れながら下り切ると、黒門跡にたどり着く。黒門から内堀を渡る黒門橋は、現在、内堀にかかる3つの橋の中で唯一の土橋になっているが、やはり以前は木橋であった。黒門跡には昔の黒門の写真が掲げられていて、2層建ての堅牢な黒門櫓の真ん中に木橋が吸い込まれている様子が見て取れる。

江戸期の彦根城は黒門橋が内堀と、琵琶湖から繋がっている松原内湖の区切りの役割を果たしていて、内堀の水は松原内湖から引いていた。

内堀に沿って表門方向に進むと、左側に玄宮園がある。4代藩主・井伊直興により延宝5年(1677)に造営された池泉回遊式の大名庭園で、池を琵琶湖に見立てて、琵琶湖や中国の瀟湘八景に因んで選ばれた近江八景を模して造られた。ここも立ち寄りたかったが、午後に湖東三山を廻る時間が必要なため省略した。

彦根城の特徴の一つとされる、琵琶湖から引き入れた三重の堀のうち、外堀は一部のみ、中堀、内堀は現存している。内堀内側の第一郭には家臣団筆頭の屋敷が配置され、内堀と中堀に囲まれた第二郭(二の丸)には重臣武家屋敷が軒を並べていたという。
ひっそりとした内堀に白鳥が一羽静かに漂い、内堀を一周する屋形船が船着き場近くでのんびりと客待ちしていた。この屋形船は、江戸時代の船を再現したもので、藩主の領内視察のほか、他大名・公家の接待、船上からの鷹狩りなどにも使われていた。

内堀沿いの金亀児童公園には、二季咲桜がある。この桜は春と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜で、昭和47年に水戸市より寄贈されたものである。その奥には井伊直弼像も建てられている。

彦根城の南に、江戸時代の街並みを再現した「夢京橋キャッスルロード」という商店街が人気を呼んでいる。すべての建物が切妻屋根の町屋風に統一され、白壁、いぶし瓦、格子戸などがレトロな雰囲気を盛り上げている。ひこにゃんグッズなどの土産物屋や、近江牛、ひこね丼、近江ちゃんぽんなどのグルメの店も並んでいる。昼食はそのキャッスルロードにある「ちゃかぽん」の赤鬼うどんに決めていた。

彦根市の礎を築いた初代藩主・井伊直政は、赤い装束を見にまとい先陣を切って敵軍に駆けていった。その勇猛果敢な姿は、『井伊の赤鬼、井伊の赤備え』と恐れられた。その赤備えとは、具足、旗指物などあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成で、武田の赤備えが有名である。武田氏滅亡後、武田遺臣を配属された井伊直政もあやかり、小牧・長久手の戦いで奮戦し、幕末まで井伊家は足軽まで赤備えを基本とした。

こちらはちゃかぽんで最も人気のある「二代目」。井伊家を譜代大名の筆頭の地位に押し上げたとされる二代目藩主・井伊直孝をイメージした赤鬼うどん。

熱々の湯がきたてのうどんに、赤い上等の近江牛のしゃぶ肉を乗せ、その上から赤味噌で調味しただし汁をたっぷり注ぎかけて食べる。少しだが贅沢な近江牛を味わえて幸せになる。

こちらは「十三代目」。開国や安政の大獄で知られる井伊直弼像ではなく、茶道・歌道・能楽(ちゃ・か・ぽん=直弼のあだ名)などに真摯に取り組み、文化人としてその道を極めた十三代目・直弼をイメージした赤鬼うどんで、近江食材である近江牛・赤こんにゃく・丁字麩をあしらえた面白いうどんである。
なお、井伊家の系譜の読み方には、直孝を二代目あるいは三代目としたり、2度代を継いだ回数を数えるか数えないかで、直弼などは十三代目から十六代目まで諸説あったりして戸惑うが、ここでは深入りしない。