彦根城から南東、数Kmのところに滋賀県第一の大社、多賀大社がある。古くから「お多賀さん」の名で親しまれ、年間170万人の参拝者が訪れる。
天正16年(1588)に、多賀大社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがダメなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い、大名に与えるに等しい1万石を寄進した。寛永15年(1638)大僧正慈性により造営された石造りの太鼓橋は、「太閤橋」の賀名でも呼ばれる。この半円形に近い急なそり橋は、神橋であり、例祭には神輿が渡られる。滑りやすいが、桟を助けに渡ることができる。もちろん普通は両脇の石橋で迂回する。
太閤橋を渡ると右手に、小さな社が二つ建っている。右側が秋葉神社で、祭神として火伏せの神・火産霊賀具都知神を祀る。左側が愛宕神社で、防火の神・火産霊神と伊邪那美神を祀る。
神門の右手前には夫婦桜が枝葉を広げている。この桜は、昭和7年(1932)の昭和の大造営の竣工に際し、延命長寿、夫婦和合の神徳に因んで植えられたもので、滋賀県でも屈指の早咲きのしだれ桜として知られている。夫婦桜の左手には、珍しい大きな木造の屋形型灯篭が立っている。
太閤橋を渡った左側には、天満神社が建っている。祭神として学問の神・菅原道眞を祀っている。
太閤橋の正面には、杮葺切妻屋根四脚門の神門がある。神門の両側の築地塀には5本の白い横線が入っている。寺では定規筋と称され、5本を最高位に寺格を表す記号である。京都御所や二条城二の丸御殿の築地塀にも5本の定規筋が施されている。これは神門をくぐって内側から振り返ってみたところで、太閤橋が正面に見える。
神門をくぐった正面には、左右に大きく翼を広げたような壮大な社殿が建っている。8月上旬に催される、伊邪那美命に献灯を捧げる万灯祭の準備で、柱から提灯のための多くの電線が下げられていて見通しが悪いのが残念である。本殿をはじめとして、拝殿、神楽殿、幣殿は素木造の桧皮葺の建物で、大社造の本殿を拝殿から広がる廊下と塀で囲んでいる。
多賀大社については、和銅5年(712)編纂の『古事記』の一部に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」の記載があり、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とある。『古事記』以前には一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使の犬上御田鍬を輩出している。摂社で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵命を、同山田神社は猿田彦大神を祀り、多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮神社は伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭命の3柱を祀る。
室町時代の明応3年(1494)には神仏習合が進み、神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」との俗謡もある。「お多賀の子」とは、伊勢神宮の祭神である天照大神が、多賀大社の祭神・伊邪那岐命・伊邪那美命の子であることによる。多賀社はとりわけ長寿祈願の神として信仰され、隆盛したのも近江国が交通の結節点だったことにもよる。社に残る垂迹曼荼羅は、坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。