半坪ビオトープの日記

浮木神社、たつこ像


御座石神社から浮木神社へ向かうとほどなく、田沢湖西岸に明神堂という小さな祠が見えた。古称・浮木の宮という。江戸時代の久保田藩士だった益戸滄州の「問槎紀行(仙北市立角館図書館発刊)」によれば、波のまにまに揺れ、水中に大蛇が動くように見えたという浮木を、香木とみなして一部を切り取った者は病魔に冒されて死亡し、一家は絶えてしまったらしい。人々はそれを浮木明神として畏れ、西岸の小杉沢に祠堂を建てて崇め奉ったという。その浮木は、昭和15年(1940)、生保内発電所の建設で田沢湖に玉川の河水が流れ込むと、漂流を始め水中に姿を消してしまったという。ところが昨年(2013)4月、田沢湖で30年以上写真を撮り続けてきた芳賀憲治氏が、倒立した流木が湖面に浮かぶ姿をカメラに収めた。今年(2014)の3月末にはこの浮木は、江戸時代にあったとされる小杉沢近くに留まって、巨体を水面に突き出す大蛇か龍のように見えたのだが、それが数日後には忽然と消えてしまったという。(みちのく週末「勝手に東北世界遺産」104号「浮木明神」田沢湖に突き出す「大蛇」再来=郄橋大輔(探検家)記事より)
この浮木が水面を動き忽然と消えたり現れたりする話を聞くと、ネス湖ネッシーも巨大な浮木ではないかとついつい連想してしまう。

田沢湖西南の湖畔、潟尻に建てられている浮木神社は、流れ着いた浮木を祀ったものといわれる。別名を漢槎宮、あるいは浮身堂とか潟尻明神とも呼ぶ。明和6年(1769)久保田藩士の漢学者で俳人であった益戸滄州によって漢槎宮と命名されたため、田沢湖を漢槎宮湖または槎湖と呼ぶようになったという。

祭神として金鶴姫之命(金鶴子)が祀られている。金鶴子とはこの潟を作り、主となった伝説のヒロインで、潟尻集落ではこの神を豊漁の神として祀っている。お堂の欄間には、益戸滄州の筆になる「漢槎宮」の扁額が掲げられているが、その腐食した杉板は、昔、春山集落の三之丞がおろした国鱒獲りの網にかかって湖底から上げられたものという。潟尻集落では毎年霜月九日に国鱒二尾を供えてこのお堂にお籠りしてきた。その晩は大騒ぎして徹夜で呑み騒ぐ。というのはその夜、八郎が八郎潟からはるばる金鶴子を慕って愛の殿堂を築くべく来る日で、必ず雨風に乗って来るからである。その「八郎の音」を聞くと悪病にかかる故、聞くまいと大騒ぎして紛らすという。八郎が来ている冬の間は、湖は二人の熱情で凍ることがないといわれる。

浮木神社のすぐ西に、田沢湖のシンボル、金色に輝く「たつこ像」が立っている。田沢湖の湖畔には辰子伝説にまつわる像が4体あり、これまでに見た北岸の「姫観音」、御座石神社境内の「たつこ姫像」と、東岸にある「辰子観音」、一番有名なこの「たつこ像」である。この黄金色のブロンズ像は、舟越保武氏により昭和43年に製作された。

田沢湖という名は明治以降と考えられているが、辰子姫も以前は鶴子とか金鶴子とよばれていた。田沢湖の主になった辰子の身を案じて悲しむ母が別れの時に投げた松明が、水に入ると魚の姿をとった。それが田沢湖の国鱒の始まりという話もある。

田沢湖は、地質学上では第4紀以後にできた桶形陥没湖、すなわちカルデラである。石器時代遺跡からは、網を実体紋とした土器破片や網に使う錘石が出土して、漁労に従事していた証拠とされる。

秋田県を中心に青森県岩手県にまたがる三湖伝説がある。昔、十和田湖に住んでいた八郎太郎は、諸国で修行をして終の棲家を探す南祖坊と戦って破れて日本海まで逃げ延び、八郎潟を作った。八郎太郎はいつしか田沢湖の辰子に惹かれて毎冬通うようになった。ところがある冬、辰子のもとに南祖坊が立っていて辰子を巡って再度戦いが始まった。今度は八郎太郎が勝ちを収めて、それ以来毎冬田沢湖に暮らすようになり、雄潟と呼ばれる八郎潟は凍結するが、雌潟と呼ばれる田沢湖は凍結しないのだという。

田沢湖伝説は江戸時代にはいくつか散見されるが、そこにはタッコ潟とかタツコなる語がでてこない。八郎潟は八竜湖あるいは雄潟であり、田沢湖は槎湖(うききこ)あるいは雌潟である。昭和前期の民俗学者武藤鉄城氏の説によると、タッコ潟から女主人公のタツコが生まれただろうが、タッコは湖畔の田子ノ木集落の名にでたものであり、その地名は「タッコフ(タプコプ)」すなわち「水辺に円錐形の小山のある所」を意味する石器時代民語(アイヌ語)からでたものとされる。田子ノ浦の擂鉢形の富士山と関連するタコである。実際に田子ノ木集落には、遠くから望めば湖畔唯一の島とまがう円錐形の靄森山(もやもりやま、373m)がある。もやもりの「モヤ」も、アイヌ語では「小山」を意味するという。