半坪ビオトープの日記

法性寺、観音堂


法性寺には、「長享二年秩父札所番付(縦24.5cm、横101.8cm)」という古文書も保存されていて、本堂前にその複写が掲げられている。秩父札所の創立は明らかではなく、文歴2年(1234)十三権者(熊野権現蔵王権現など)により開創されたと伝えられている。文献上では、長享2年(1488)に記され、室町時代すでに33ヶ所の札所が定められていたことを物語る。当時の順路は現在とは異なり、秩父宮郷が中心で、江戸時代に入って江戸からの巡礼者が多くなり、現在の順路に代わったものと考えられている。

石段をさらに上り、先の高みにある観音堂を目指して進むと、右脇に毘沙門堂が建っている。

なおも上がっていくと、石垣で補強された岩盤の上に建てられた、懸け造りの観音堂を仰ぎ見ることができる。

観音堂の手前で、左に奥の院へ通じる参道が分かれる。大きな岩がもたれかかった狭い岩穴をくぐり抜けていくと、人気のない細い山道が続いている。奥の院の山頂の巨岩はたいへん危険といわれているので、お船観音と大日如来への登拝は断念した。

分かれ道の脇には、苔むした石祠がいくつも並べられている。

聖観音像を本尊とする観音堂は、棟札の写しに宝永4年(1707)の建立と記されている。秩父札所中でも古い建造物である。3間4面(正面幅9.75m)、懸け造り総欅材で、屋根は宝形。基礎からの高さは14.1mを測る。
観音堂の本尊は、木造聖観音立像(像高137cm)で、右手は肘を折り掌を前に向け、左手に蓮華を持つ。頭部には透し彫りの宝冠をつけ、像全体に漆箔が施され、室町時代の作と推定されている。普段は厨子の中に納められているが、今年は午年の総開帳なので3月から拝観できる。だが残念ながらまだ厨子は閉じられていた。

法性寺には、室町時代作とされる像高21cmの木造蔵王権現像、奥書に永和2年(1377)の年号が記された大般若経6巻などが保存されているとされる。
観音堂の入口扉の上には、笠をかぶり櫂を持って船を漕いでいるお船観世音像の額が掲げられている。

観音堂には観音霊験記の霊場縁起の絵馬が奉納されている。豊島権の守の娘「ある時犀が渕に飛び入りし一人の美女を舟に乗せ助けしは天冠の上に笠をかぶりし御本尊なり」とある。

観音堂の裏の崖に御堂がある。その裏の崖に蜂の巣のような穴がたくさん見られる。岩石の中の塩類が表面に滲み出し、水が蒸発すると塩類の結晶が成長し、岩石の表面を崩していく「タフォニ」という風化現象である。

御堂の中には、子授け地蔵を中心に、いくつかの石仏が祀られている。