半坪ビオトープの日記

金鑽神社、鏡岩


社伝によれば、景行天皇の41年、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打金を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素盞嗚尊を祀ったのが始まりという。その後、欽明天皇2年に日本武尊を合わせ祀ったという。延暦20年(801)に坂上田村麿が東北遠征前に戦勝祈願し、永承6年(1051)には源義家が東国平定を祈願したという。拝殿は、切妻流造である。

金鑽神社には拝殿の奥に本殿を置かず、背後の御室山全体を御神体としている。旧官・国弊社の中で本殿がないのはここのほか、全国でも奈良県大神神社と長野県の諏訪神社だけであるという。拝殿の裏には垣と祝詞舎中門があるだけで、そこから御室山を遥拝するようだ。
延喜式神名帳では、金佐奈神社と記されている。金鑽(かなさな)とは、「金砂(かなすな)」が語源とされ、神流川周辺で刀などの原料となる良好な砂鉄が産するため砂鉄を意味するという説や、御岳山(御室山)は金華山ともいって山腹の銅採掘を神格化したとする説などがある。故に祭神を金山彦命とする考えもある。神川町のある児玉郡には数多くの古墳も見つかっていて、古来より祭司集団(おそらくは渡来系氏族)を含む豪族が高い文化を築いていたと思われる。特に金鑽神社古墳は、5世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳で、全国的にも例の少ない朝鮮半島系の叩き目を持つ円筒埴輪が出土して、被葬者が渡来人と関係があったことが指摘されている。本殿のない神社の古い形態とともに注目されることである。

鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が篤く、近郷二十二ヵ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代には徳川幕府から御朱印30石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。
拝殿裏の左手には長屋状の境内社がある。氷川神社や祓戸神社など多くの神社が祀られているようだ。

境内にはほかにも、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものといわれる「駒繋石」「旗掛石」などがあるという。
拝殿に向かって左手に進むと御岳山の奥宮へ続く登山道がある。道の左脇には御岳山遥拝所がある。

御岳山登山道は、丸く一巡できるようになっている。分岐点から右回りでは、鏡岩から見晴台を経て御岳城跡に至り、蓮池を通って戻ってくる。鏡岩まで右の道を進む。

苔むす登山道は、句碑の道ともなっていて、俳句が刻まれた石碑がたくさん並んでいる。

国指定の特別天然記念物である御嶽の鏡岩は、約一億年前に関東平野関東山地の境にある八王子構造線ができた時の、岩断層活動のすべり面である。岩面の大きさは、高さ約4m、幅約9mと大きく、北向きで約30度の傾斜をなしている。岩質は赤鉄石英片岩で、強い摩擦力により磨かれて赤褐色に光るため、古くから鏡岩と呼ばれている。