半坪ビオトープの日記

吉見観音安楽寺


昼食は、埼玉県比企郡吉見町の吉見百穴の北東1.5kmにある「手打ち十割そば八丁」というそば屋にした。どういうわけか道路に背を向けて店があり、駐車場に入らないとわかりづらい目立たぬ店だった。

十割蕎麦は800円だが、十割鴨汁蕎麦1400円を注文した。合鴨もたくさん入っていて蕎麦も格別美味しかった。

サービスで、食前に蕎麦せんべい、食後にそば寒天入りのぜんざいがつくのも面白い。

吉見百穴よりも吉見観音に近いので、そちらを先に寄った。吉見観音と通称される安楽寺真言宗智山派で、正式には岩殿山光明院安楽寺という。坂東三十三ヶ所第11番札所、東国花の寺百ヶ寺埼玉5番である。

境内入口に南面して建つ仁王門は、3間1戸の八脚門であり、阿吽の金剛力士2体を安置している。

仁王像の造立は、息障院文書から元禄15年(1702)と考えられ、近年の解体修理の際にも胎内から元禄年間の寄進者を列挙した板が11枚見つかっている。

吉見観音縁起によると、奈良時代の僧・行基聖観音像を岩窟に安置したのに始まるとされ、大同元年(806)に坂上田村麻呂が奥州征伐の折、堂宇を建立し吉見領の総鎮守としたと伝えられる。
平安時代末期には、源頼朝の弟範頼が幼少期に稚児僧として身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東500mに「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。鎌倉幕府成立後、範頼が吉見庄を領するに及び、本堂・三重塔を建立したが、天文6年(1537)後北条氏松山城を攻めた際に戦乱により全ての伽藍が消失した。現在の本堂は、寛文元年(1661)杲鏡の弟子・秀慶法印によって再建されたものである。

本堂は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面をもつ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に、江戸時代前期の様式を保持している。向拝は享保年間の付加、屋根はもと杮葺だったが、大正12年の改修の際に銅瓦棒葺に改められた。本堂内部は薄暗くてよく見えないが、奥の内陣欄間の一番左に左甚五郎の作と伝えられる「野荒らしの虎」の頭だけが微かに見える。