半坪ビオトープの日記


茅葺きの山門は、慶応元年(1865)の火災の際にも常香楼とともに被災を免れた建物で、現在、山内で一番古い建物である。屋根裏の棟札には元禄8年(1695)に山門の普請が行われたと記されていた。薬医門と呼ばれる形式で、柱、梁、組物などはケヤキ材である。屋根は切妻の茅葺き、屋根裏板や垂木はスギで造られている。ケヤキ部分をベンガラで赤色に、スギ部分を黒で塗った、山内唯一の彩色建物である。

文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、今の大師堂裏の高台にあったが、幕末の大火で焼失し、明治3年(1870)に山門を入った右手に再建されたのが現在の鐘楼である。基壇に三つの反響用の瓶(かめ)を埋め、多孔の鉄板で蓋をしている。旧梵鐘は鎌倉末期の特徴をよく示し、永和2年(1376)の山城守宗光の銘があり、都内で3番目の古鐘として国の重文に指定され、現在は釈迦堂に安置されている。新しい梵鐘は平成13年に新鋳されている。

重文の銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)を安置する堂宇として昭和51年に釈迦堂が新築された。四本の円柱に支えられた屋根は方形造り銅板葺きで、頂部に露盤・宝珠を据えている。

山門の外に出ると門前の通りにそば屋がたくさんある。西に進むと昭和43年に再建された深沙大王堂がある。正面2間半、奥行き3間半、入母屋造銅板葺き、妻入りで正面に向拝がある。堂の背後にはこの地の水源であり、深大寺の発祥に関わる泉がある。旧堂は大師堂に匹敵する大きさがあり、深沙大王社と呼ばれていたが、明治元年神仏分離令により取り壊されてしまった。

現在の深沙大王堂に安置されている本尊の深沙大王像は、高さが57cm、どくろの胸飾りをつけ象皮の袴をはいて忿怒の形相をした鎌倉時代の優作といわれる。厨子に納められ、宮殿(くうでん)と呼ぶ建物内に安置されているが、秘仏のため拝することができない。