半坪ビオトープの日記


太宰治はこの豪邸の建築の2年後に生まれた。太宰はこの家を「苦悩の年鑑」の中で、「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」と書いている。斜陽館の2階に上がると大きな洋間とその控え室がある。

2階には和室が6部屋もあり、廊下からは庭園が見下ろせる。

和室もそれぞれに趣きが変わり、書や襖絵、欄間などに趣向を凝らせている。

斜陽館の裏手に、生家の離れだった通称「津島家新座敷」がある。大正11年、津島家の跡取りとなる太宰の長兄文治の結婚を機に新築されたものである。昭和20年7月に太宰は東京、疎開先の甲府の戦禍を逃れ、妻子とともに故郷に身を寄せた。翌年11月まで疎開先のこの家に暮らした。この6畳間の書斎で太宰は、「パンドラの匣」「親友交歓」「トカトントン」など23作品を執筆した。
奥の部屋の先に母屋(斜陽館)からの渡り廊下がつながっていて、疎開中の太宰は日に何度も行き来したという。

2007年に公開されるまでほとんど知られていなかった建物だが、文壇に登場してから太宰が暮らした居宅として、唯一、現存している邸宅である。

斜陽館の向かいには、郷土料理店「はな」があり、太宰が好きだったという地元産の根曲がり竹や新ワカメが入った、太宰らうめんが人気を呼んでいる。

こちらは太宰が好きだった帆立の貝焼きみそである。昭和19年作の「津軽」の中で、蟹田のSさん宅にて出された「カヤキ」である。帆立の貝殻に味噌と鰹節を入れて煮て、卵を落として食べる津軽名物だ。ついでに十三湖名物の美味しいしじみ汁も味わった。
「はな」の斜め向かいには津軽三味線会館がある。金木は津軽三味線発祥の地であり、歴史や特徴を紹介するとともに実演も行われている。