半坪ビオトープの日記


弘前城跡三の丸の一角にある市立博物館では、ねぷた展が開かれていて、大正から昭和時代のねぷたの鏡絵や見送り絵がたくさん展示されている。主な常設展示品は、津軽塗、観桜観楓屏風などである。それらは撮影禁止だが、ロビーに展示されている絵は撮影可である。
こちらが「天の岩戸」という棟方志功作のねぷたの鏡絵である。

こちらは「天照大神」という棟方志功作のねぷたの見送り絵である。鏡絵はねぷたの正面、見送り絵は裏面の絵である。
ちなみに弘前ねぷたまつりは、8月1日から7日である。由来はいろいろあり、伝説では平安時代の初期、坂上田村麻呂が敵をおびき出すために大きな人形を作ったという。定説では、江戸時代元禄期の後半から、七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流しや盆灯籠などが融合したとされる。
語源は、眠り流し⇒ねむた流し⇒ねむた⇒ねぷたと転訛したという。

弘前城の向かいにある市立観光館にもねぷた展示コーナーがある。右側の人形のようなねぷたを「組ねぷた」という。
現在運行されているのは、馬の足下にある小さい「扇ねぷた」の形が主流である(実際には右の組ねぷたより大きいのだが)。
さらに左の像は、津軽藩祖「津軽為信」公の像である。

観光館の裏手に山車展示館がある。1989年の製作当初は日本一の大太鼓といわれた直径4mもある「津軽剛情張大太鼓」が展示されていたのだが、ねぷた祭に出陣するため出払っていた。
ここには、藩政時代から伝わる市内各町会の山車がいくつも展示されている。これは鍛冶町の山車「道成寺山」で、和歌山県道成寺に伝わる安珍清姫の物語の出し物である。文化3年(1806)以来変わることなく明治時代まで運行されたものという。

弘前の山車は、4代藩主津軽信政の時代の天和2年(1682)弘前八幡宮の祭礼の際、神輿の露払いとして各町内で繰り出したのが始まりとされる。
山車飾り物の特徴は、京都や江戸の文化の影響を受けた人形を中心とした高欄付きの山車であり、のちに弘前ねぷたに影響を与えたといわれている。この「布袋山」という山車は東長町のもので、左の「福禄寿と大黒天の角力場(すもうば)」という練物は文化3年以来のものという。