阿曇比羅夫之像が境内入口近くに立っている。阿曇比羅夫は、七世紀中期に対朝鮮半島関係に活躍した官人、将軍。阿曇山背比良夫とも記す。大仁の冠位で百済国士を務めていたが、皇極元年(642)舒明天皇の死去に対して派遣された百済の弔使を伴い帰国し、百済の国情の乱れを報告した。百済義慈王に追放された王子翹岐(ぎょうぎ)が来朝した時、自分の家で保護した。斉明7年(661)百済が唐と新羅の連合軍により攻められ危急に陥った時、百済救援の前将軍に任ぜられ、後将軍阿部引田比羅夫らとともに軍を率いて渡韓することになり、天智元年(662)外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し、百済王子余豊璋を本国に送還して即位させたが、翌年白村江で戦死し、日本は大敗し、百済は滅んだ。当神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、その日は阿曇比羅夫の命日とされる。
仁科神明宮
大町市の東南部の仁科の森に日本最古の神明造を誇る国宝・仁科神明宮が鎮座している。仁科神明宮の一の鳥居を潜って200mほど参道を進んだ傍に駐車場があり、社号標の先の境内に入ると、かなり先の手水舎の左手前に三本杉が見える。さらにその手前左手に神宮寺跡がある。
神門と拝殿は国宝にはなっていないが、かなり格式高く造られている。神門の右手に立つ小さな末社は八幡社である。
仁科神明宮の創始は不明だが、皇大神宮御領であった仁科御厨(みくりや)の鎮護のため、仁科氏によって伊勢神宮内宮が勧請されたことに基づく。建久3年(1192)二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には麻績・長田・藤長および仁科の四御厨しかなく、仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記されるが、信濃国最古の御厨とされる。拝殿は桁行三間梁間二間の切妻造となっている。
安曇野、小谷温泉、白馬大出
栂池高原自然園
シソ科のオドリコソウに似るこのピンクの花は、ゴマノハグサ科シオガマギク属のオニシオガマ (Pedicularis nipponica)という多年草。 石川県から青森県の本州日本海側に分布し、深山の湿った谷間などに群生する。高さは40〜100cm。葉は対生し、5枚前後の大型の根生葉は羽状に全裂し、裂片は深く裂け、両面に白毛がつく。茎につく葉は小型で羽裂せず、上部のものは苞になる。花期は8〜9月で淡紅紫色の花が下段から上段に咲いていく。上唇は舟を伏せたような形で、中に雄蕊が4本、下唇は3裂して広がる。
栂池高原自然園
ワタスゲ湿原を過ぎると岩がゴロゴロ積み重なる坂道を抜けて浮島湿原に出る。晴れていれば行く手に白馬岳(2932m)が見えるのだが、雲に遮られて見えない。ここから見えるのは、白馬岳より右手前の小蓮華山(2766m)と思われる。白馬岳は今から30年ほど前に白馬大雪渓から登ったことがあるが、残念ながら懐かしいのは景色より当時の足腰・体力である。
奥浦湾、堂崎教会、福江城跡
江戸時代、五島藩の城下町として栄えた福江の町中には、石田城跡や溶岩塊の石垣など風情ある景観があちこちに残っている。特に約400mにわたって続く武家屋敷通りの石垣は圧巻である。
これで6月初旬、4泊5日の五島列島の旅を終える。遣唐使からキリシタンと教会、そして西海国立公園認定、潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産になるなど、観光で賑わう現在まで、五島列島の歴史は奥深い。とりわけ五島列島にはキリスト教の教会が51ヶ所も残っている。そのうちおよそ30ヶ所を大急ぎで巡ってきたが、世界遺産に登録された野島崎の集落跡に残る旧野首教会は日程不足で残念ながら断念した。壮絶な迫害・弾圧に耐えて命懸けで信仰を守った五島列島の信徒たちの信仰心には尊敬の念を抱くとともに、秀吉から徳川幕府へと続く禁教政策の理不尽さに憤りを感じざるを得なかった。
明星院
明星院の現在の本堂は、第28代五島藩主・盛運公が、安永7年(1778)に火災で焼失したものを再建したもので、五島最古の木造建造物である。昭和45年(1970)銅板屋根の葺替え修復を行った。檜の芯柱20本が使用されている。本尊は虚空蔵菩薩で、脇仏は地蔵菩薩と阿弥陀如来である。2015年に日本遺産に認定された。延暦23年(804)に空海が唐から帰朝する途中にこの寺に籠り、朝の明星を見てこの名を寺につけたと伝えられている。