40段ほど石段を上ると少し広くなって、二の鳥居の先にまた石段が続く。苔も草も多い。
さらに数段上って色鮮やかな拝殿を眺めると、小さく高欄が設けられている。式内月讀神社と高御祖神社の論社である。現在、月讀神社と称する式内論社が他に存在し、高御祖神社と称する式内論社も他に存在しているが、両社の査定は江戸時代の橘三喜による誤りであるとされている。また、箱崎八幡神社は壱岐七社の一つでもある。七社とは、白沙八幡、興神社、住吉神社、本宮八幡、箱崎八幡、国片主神社、聖母宮とされる。この壱岐七社に、月読神社も天手長男神社(壱岐国一宮)も入っていないことに留意したい。
吉野氏(壱岐氏の裔)文書によれば、原初オンダケ山に鎮座し、その後山を下りて上里の東屋敷、下里の辻、新庄村の宮地山と遷座し、元禄13年(1700)現在地、箱崎村根低(もとかぶ)山へ落ち着いた。オンダケ山は男岳山と書かれ、現在猿田彦を祀る男嶽神社がある。また、イヲトリ(五百鳩)山、磯山とも呼ばれ、『和漢三才図会』には、当社は「磯山権現 磯山にある。祭神一座 竜神 聖武天皇の神亀年中に現れる」と記されている。現社名、箱崎八幡は、正慶元年(1332)に筑前筥崎宮を勧請した結果。この地が筑前箱崎宮の神領になっていたからで、社号の変更にともない、村名も椙原村から箱崎村に変わったという。八幡神により地主神が消されることは各地で見られることだが、それ以前から遷座を繰り返し、祭神の変更や合祀が何度も行われて、現在も祭神も数多く、どれが本源の神だったかわかりにくいが、この後訪ねる男嶽神社でもう一度考えてみたい。
拝殿の背後には簡素な幣殿が続き、本殿も質素な感じがする。祭神として、海裏宮には豊玉毘古命(または豊玉姫命)、玉依姫命が祀られ、八幡宮には品陀和気命(応神天皇)、仲日売命(中津姫命)、帯中津日子命(仲哀天皇)、息長帯日売命(神功皇后)が祀られ、月讀神社には天月神命が、高御祖神社には高皇産霊神が祀られる。別殿には、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られる。天一柱神=天比登都柱とは、伊邪那岐神・伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つで、伊伎嶋(壱岐)の別名である。
『日本書紀』巻八、仲哀天皇九年二月条に、仲哀天皇の急逝に際し、皇后と大臣竹内宿禰は天皇の喪を天下に知らしめず、皇后の気長足姫(後の神功皇后)は、大臣及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に、百姓(人民)に知らせてはならないと断った上で、百寮を率いさせ、宮中を守らせた、とある。つまり、中臣烏賊津は、古墳時代の豪族・中臣連の祖とされる。別名、雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)は、神功皇后と共に新羅から帰還した後、対馬県主となって豆酘に館を構え、太古の亀卜の術を伝えたとされた。そのことは対馬の雷神社を訪れた際にも触れたはずである。
『日本書紀』顕宗天皇三年二月条に、阿閉臣事代が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著(かか)りて託宣した。「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔ひ造せる功有します。宜しく民地を以て我が月神に奉れ。若し請の依に我に献れば、福慶アラム」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。『式社略考』には、「高御祖神社は箱崎村にありて、八幡神社の別殿に高皇産霊を祀る」とあるように、月神がその祖高皇産霊は同じ場所に祀られていた。