半坪ビオトープの日記

箱崎八幡神社、女嶽神社

箱崎八幡神社
次に向かったのは、壱岐の北東部、芦辺町箱崎にある箱崎八幡神社。道路に面してがっしりした一の鳥居が建つ。

二の鳥居

40段ほど石段を上ると少し広くなって、二の鳥居の先にまた石段が続く。苔も草も多い。

三の鳥居と社殿
石段を上り詰めたところに三の鳥居が建っていて、その先にようやく社殿が見える。豊玉毘古命や玉依姫命など海の神様を祀る箱崎八幡神社は、航海安全や大漁祈願などにご利益があるとされ、古くから海の男たちの守り神として親しまれている。社伝によると、桓武天皇延暦六年(787)の外寇の際、壱岐箱崎八幡神社、本宮八幡神社、白沙八幡神社、印鑰神社、聖母宮の五社を勧請したうちの一つという。境内には捕鯨発祥の地である紀州熊野浦の日高弥吉が奉納した「明応二年(1493)」の銘が刻まれた一基の金灯籠が安置され、壱岐で最も古い狛犬が本殿の後ろに安置されているという。

拝殿

さらに数段上って色鮮やかな拝殿を眺めると、小さく高欄が設けられている。式内月讀神社と高御祖神社の論社である。現在、月讀神社と称する式内論社が他に存在し、高御祖神社と称する式内論社も他に存在しているが、両社の査定は江戸時代の橘三喜による誤りであるとされている。また、箱崎八幡神社壱岐七社の一つでもある。七社とは、白沙八幡、興神社、住吉神社、本宮八幡、箱崎八幡、国片主神社、聖母宮とされる。この壱岐七社に、月読神社も天手長男神社(壱岐国一宮)も入っていないことに留意したい。

吉野氏(壱岐氏の裔)文書によれば、原初オンダケ山に鎮座し、その後山を下りて上里の東屋敷、下里の辻、新庄村の宮地山と遷座し、元禄13年(1700)現在地、箱崎村根低(もとかぶ)山へ落ち着いた。オンダケ山は男岳山と書かれ、現在猿田彦を祀る男嶽神社がある。また、イヲトリ(五百鳩)山、磯山とも呼ばれ、『和漢三才図会』には、当社は「磯山権現 磯山にある。祭神一座 竜神 聖武天皇神亀年中に現れる」と記されている。現社名、箱崎八幡は、正慶元年(1332)に筑前筥崎宮を勧請した結果。この地が筑前箱崎宮神領になっていたからで、社号の変更にともない、村名も椙原村から箱崎村に変わったという。八幡神により地主神が消されることは各地で見られることだが、それ以前から遷座を繰り返し、祭神の変更や合祀が何度も行われて、現在も祭神も数多く、どれが本源の神だったかわかりにくいが、この後訪ねる男嶽神社でもう一度考えてみたい。

本殿

拝殿の背後には簡素な幣殿が続き、本殿も質素な感じがする。祭神として、海裏宮には豊玉毘古命(または豊玉姫命)、玉依姫命が祀られ、八幡宮には品陀和気命応神天皇)、仲日売命(中津姫命)、帯中津日子命仲哀天皇)、息長帯日売命(神功皇后)が祀られ、月讀神社には天月神命が、高御祖神社には高皇産霊神が祀られる。別殿には、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られる。天一柱神=天比登都柱とは、伊邪那岐神伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つで、伊伎嶋(壱岐)の別名である。

日本書紀』巻八、仲哀天皇九年二月条に、仲哀天皇の急逝に際し、皇后と大臣竹内宿禰天皇の喪を天下に知らしめず、皇后の気長足姫(後の神功皇后)は、大臣及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に、百姓(人民)に知らせてはならないと断った上で、百寮を率いさせ、宮中を守らせた、とある。つまり、中臣烏賊津は、古墳時代の豪族・中臣連の祖とされる。別名、雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)は、神功皇后と共に新羅から帰還した後、対馬県主となって豆酘に館を構え、太古の亀卜の術を伝えたとされた。そのことは対馬の雷神社を訪れた際にも触れたはずである。

日本書紀顕宗天皇三年二月条に、阿閉臣事代が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著(かか)りて託宣した。「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔ひ造せる功有します。宜しく民地を以て我が月神に奉れ。若し請の依に我に献れば、福慶アラム」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。『式社略考』には、「高御祖神社は箱崎村にありて、八幡神社の別殿に高皇産霊を祀る」とあるように、月神がその祖高皇産霊は同じ場所に祀られていた。

境内社
社殿の右手奥には境内社がいくつか合祀されているが、詳細はわからない。『芦辺町史』には、摂社として亀丘大神宮、椿山神社、丘坂神社、塩釜神社、小松原神社、貴船神社の6社、末社として男岳神社、大神宮、恵美須の3社が載るが、どれかはわからない。

境内社
別殿に、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られるとあったが、もしかしたらこの4社が別殿なのかもしれない。ちなみに、天一柱神は壱岐島の国魂である天比登都柱命(あめひとつはしらのかみ)で、『古事記』神代巻の大八洲生成の段で、伊伎島(壱岐島)の亦の名は天比登都柱とされている。烏賊津連は、対馬の雷命神社に祀られている雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)のことで、卜部の祖として祀られ、橘氏はその直裔とされる。武内大臣は、武内宿禰のことで、『日本書紀応神天皇9年4月条に壱岐での出来事が書かれている。乙魂神については残念ながら何もわからない。

女嶽神社
箱崎八幡神社から北東に男嶽神社に向かうが、途中、左の女岳山(149m)の山頂付近に女嶽(めんだけ)神社があるので寄ってみた。深い林の中の細い道路を進んでいくと、人気のない場所にようやく女嶽神社の社殿が現れた。男嶽神社と並び壱岐島でも古い神社なのにも関わらず、鳥居も社殿も真新しい。最近改築されたのであろう。

拝殿内部
拝殿内部も真新しく質素である。祭神として、アメノウズメノミコト(天鈿女命)を祀る。記紀神話で、天岩戸に隠れたアマテラスを踊りで誘い出した女神で、最古の踊り子として芸能の始祖神としても祀られる。

本殿
アメノウズメノミコト(日本書紀では天鈿女命、古事記では天宇受賣命)は、後に男嶽神社の祭神である猿田彦命と結婚し夫婦神になることから、男嶽神社と女嶽神社を合わせて巡ると良縁に恵まれるという。

稲荷神社
社殿の脇に境内社があった。小さな狐の置物があるので稲荷神社であろう。参道の途中に、女嶽神社の神体とされる巣食石(すくいいし)という巨石があるというが、見過ごしてしまった。
 
 

住吉神社

「夫婦楠」

住吉神社の二の鳥居
壱岐風土記の丘のすぐ南、壱岐島のほぼ中央に住吉神社がある。平戸藩主により寄進された、苔むした大きな二の鳥居の奥、参道の先に一段高くなったところに社殿が見える。

竹生島神社と稲荷神社
境内に入りすぐ左にある神池の脇には、竹生島神社と稲荷神社があり、市杵島姫命倉稲魂神が祀られている。神池からは大陸系鏡12面、和系鏡5面が発見されている。

住吉神社の社殿

社伝によれば、住吉大神の守護によって三韓征伐を成し遂げた神功皇后が、その帰途現在の郷ノ浦町大浦触に上陸して、住吉三神を祀ったのに始まり、日本初の住吉神社と称している。その後、神託により「波の音の聞こえぬ地」を選んで、現在地に遷座したという。

クスノキの巨樹「夫婦楠」
儀式殿の前に立つ大きなクスノキは、根元の部分から幹が二股に分かれ、「夫婦楠」の愛称で親しまれている。また、神池近くに立つクスノキの神木は、江戸時代末期の『壱岐名勝図誌』に「此楠に現人神鎮座せり 枝葉ことに繁茂れり」と記載され、当時からすでに巨木になっていたという(目通り5.2m)。

オガタマノキの巨樹
「夫婦楠」の隣に立つ大きなオガタマノキは、幹周1.52m、樹高約22mで、壱岐の銘木・巨樹とされる。

住吉神社の拝殿
住吉神社主祭神として、底筒男命中筒男命表筒男命を祀り、住吉大神と総称する。

拝殿内
相殿に八千戈神を祀る。延喜式神名帳では名神大社に列し、そのほか長崎県下筆頭神社を名乗っている。

玉垣に囲まれた本殿
拝殿の裏手は石垣が積み上げられて一段高くなっており、玉垣が設けられて近寄りがたい本殿を囲んでいる。住吉神社は、明治四年(1841)に国幣中社に列格し、壱岐で唯一の官社となった。大阪の住吉大社をはじめ、下関、博多の住吉神社と並び「日本四大住吉」と称される。

本殿

建国神話で高皇産霊神が山城と大和に移し祀られた折、山城国では壱岐県主が祭祀者となったという。日本の古代祭祀の原型が壱岐対馬で発生したのではないかともいわれる。大宝律令に神々の祭祀を司る神祇官が置かれ、出仕する卜部に壱岐から10人が出仕し重要な地位を占めていたことなどから、古来より壱岐は、神々に使えるものが多く、神々の島といわれてきた。壱岐対馬同様に式内社が多く、西海道神107座98社のうち24座24社があり、約四分の一を占めている(対馬は29座29社)。

絹本着色高野四社明神像
長崎県有形文化財として、室町時代中期以降の作品とされる、絹本着色高野四社明神像(絵画)が指定されている。

宝物殿などの建物
毎年1220日に住吉神社では「壱岐大神楽」が奉納される。この神楽は壱岐の神楽の中でも最も厳粛なもので、舞人・楽人合わせて12名以上で奏され、78時間を要する。境内の左手には宝物殿などの建物が並んでいる。

ヌマガエル
境内で小さなカエルを見つけた。背中のイボの大きさ、白い背中線、背中の模様によってヌマガエル(Fejervarya kawamurai)と思われる。本州中部以西、四国、九州以南に分布するが、1990年代頃より関東や対馬壱岐五島列島でも確認されるようになり、国内外来種とされる。よく似たツチガエルと一緒に庭の池で飼ったことがある。腹を見ればヌマガエルは白いので区別できる。

ニホンアマガエル
こちらの小さなカエルはニホンアマガエルDryophytes japonica)で、対馬壱岐隠岐佐渡島なども含め日本各地に生息している。平成28年(2016)、近畿地方辺りを境に東西で遺伝的相違があることがわかったという。
 
 

猿岩、太郎磯・次郎礫

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猿岩
翌朝も快晴。湯本湾を囲む黒崎半島の先端に、壱岐のシンボルともいうべき「猿岩」がある。壱岐島が誕生する謂れとして、「壱岐は生きた島なので流されないようにと八本の柱を立てて繋いだが、その柱は折れのこり、今も岩となって残っている」という言い伝えがある。その壱岐の八本柱の一つがこの猿岩だという。2015年に「日本の奇岩百景」に認定された。

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猿岩
高さ45mの玄武岩でできた海食崖の一部である猿岩は、「そっぽを向いた猿」そっくりの横顔がユニークな奇岩である。壱岐島の基盤は、新第三紀中新世の「勝本層」で、「壱岐の土台石」と呼ばれる砂岩・頁岩の互層で、場所により凝灰岩が挟まれている。新第三紀鮮新世になると火山活動が活発化し、「壱岐層」と呼ばれる流紋岩質凝灰岩、安山岩類溶岩と流紋岩質溶岩が形成された。壱岐層の上には、この猿岩を構成している第四紀更新世に噴出した玄武岩溶岩類がある。黒っぽい流動性の高い溶岩である。

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猿岩展望台に歌碑

猿岩展望台駐車場の一角に歌碑があった。「天町のたわむれおかしとあかずみる 壱岐猿岩の夏姿かな」残念ながら詠み手はわからない。

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黒崎砲台跡への入口

駐車場のすぐ手前に黒崎砲台跡への入口がある。第一次世界大戦後の大正11年(1922)、ワシントン軍縮会議で、米、英、日の主力艦の所有率を「5:5:3」とすることになった。日本の軍部は、廃棄する軍艦の主砲を利用して秘密要塞を対馬壱岐に造った。

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黒崎砲台跡への入口

対馬海峡を通過する艦船を攻撃するため、黒崎半島には昭和8年(1933)戦艦土佐の40cmの主砲が設置され、砲身の長さ18.83m、1tの弾丸の射程距離35km、地下7階建ての東洋一の砲台といわれた。第二次世界大戦では、航空機が主流になったため、黒崎砲台は一発も実弾を発射することなく終戦を迎え、「打たずの砲台」と陰口を言われたという。

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太郎磯・次郎礫

猿岩の近く、湿り気のある草原を下っていくと、高さ数十mの断崖絶壁の上の玄武岩の石畳に、太郎磯(つぶて)・次郎礫という、直径1mを超える二つの巨石が転がっている。

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太郎磯・次郎礫

昔、壱岐の鬼たちが、退治に来た百合若大臣と戦った際、巨石を投げて応戦したといわれ、その時太郎・次郎が投げずに忘れた石とか、百合若大臣が扇ではね返した石とかの伝説がある。

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ハマナタマメ
太郎磯・次郎礫に下る湿り気のある草原にピンク色の花を見つけた。ナタマメ属のハマナタマメ(Canavalia lineata)という多年草。本州以南の海岸に生える蔓性草本で、基部は木質化する。蔓は長く伸び、茎には短い圧毛をまばらにつける。葉は三出複葉で、円形から広倒卵形、長さ5〜12cm、幅4〜10cm、やや革質、先端は尖るか丸まる。夏に葉腋から総状花序を出し、淡桃色の蝶型花を10個ほどつける。

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セイヨウミヤコグサ
こちらの黄色の花は、形がミヤコグサLotus japonicus)の花によく似るが、よく見ると翼弁はそっくりだが、旗弁が横に広がっているように見える。セイヨウミヤコグサLotus corniculatus var.corniculatus)というヨーロッパ原産種の帰化植物かもしれないが、簡単に見分けることができない。

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チョウセンシオンとミゾソバ

ヨメナによく似たこの花は、チョウセンシオン別名チョウセンヨメナ(Aster koraiensis)と思われる。野菊の種類は見分けがつきにくく、花の形や色がヨメナに似るが、葉の形が披針形で先が尖ることから判断した。原産地は朝鮮半島で日本へは大正時代に渡来し栽培されているが、ここでは直接海を渡ってきたものと思われる。

右下のピンク色の小花は、ミゾソバ(Polygonum thunbergii)という一年草。日本全土の三谷の水辺に普通に群生する。高さは30〜80cmになる。茎には下向きの棘がある。葉は互生し、形が牛の額に見えることから、別名ウシノヒタイとも呼ばれる。夏から秋にかけて、茎の先に根元が白く先端が薄紅色の小さな花を多数咲かせる。花弁に見えるものは萼である。

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センニンソウ
こちらの白い花は、キンポウゲ科センニンソウClematis terniflora)という蔓性半低木。属名のクレマチスは「若枝」を意味する。和名は痩果に付く綿毛を仙人の髭に見立てたことに由来する。別名が「ウマクワズ(馬食わず)」というように、有毒植物である。

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ソナレムグラ
こちらの花は、辰ノ島でも見かけたソナレムグラ(Leptopetalum coreanum var. coreanum)という多年草。茎は基部から枝を多く分け、高さ20cmほどになるが、風当たりの強い岩上では3cmほどにとどまる。肉厚の葉にはツヤがあり、密に生え、上部の葉の脇に4mmほどの白花を一個ずつつけ、数個が群がる。

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ノシラン
こちらの藪陰に咲くのは、ジャノヒゲ属のノシランOphiopogon jaburan)という常緑多年草。東海地方以西の海岸の林下に自生する。細長い葉には光沢があり、漢字では熨斗蘭と書くが、ラン科ではなくユリ科である。種小名のヤブランは、ヤブランのようなという意味で、姿はヤブランに似るが、属は異なる。

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湯本湾の島々

黒崎半島の観光を終え、湯本湾に沿って湯本浦に戻る途中、湯本湾の最も南に片苗湾があり、そこから湯本湾を見返ると、たくさん小島が見えた。左前方が黒崎半島で、猿岩の北に阿瀬島、蛇島、牛島、手長島まで連なる島々と、右手前には湯本湾の中央に位置する黒ヶ島が認められる。

 

 

元寇千人塚、壱岐風土記の丘、塞神社

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元寇「新城の千人塚」
新城神社のすぐ東に元寇「新城の千人塚」がある。千人塚は、「少弐の千人塚」(弘安の役・瀬戸浦古戦場)、「浦海海岸の千人塚」(文永の役の戦死者を葬った場所)など、壱岐島内に6ヶ所確認されているが、この文永の役新城古戦場の千人塚が最も代表的な場所である。

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文永の役新城古戦場
文永11年(1274)の元軍上陸地、勝負坂、唐人原、射場原(いやんばる)、射矢本、勝負本、対陣原(たいのはる)という地名、合戦があった高麗橋、鯛の原など、勝本町新城一帯が激戦地だったことから、ここに文永の役新城古戦場の碑が建てられている。

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壱岐風土記の丘
初日に訪れた掛木古墳は、休館日だった壱岐風土記の丘の敷地内にあった。その壱岐風土記の丘をようやく訪れた。国史跡「壱岐古墳群」を紹介する古墳館と、江戸時代の百姓武家屋敷を移築復元した古民家園が併設されている。

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壱岐古墳群」
初日に見学した掛木古墳・鬼の窟古墳・双六古墳のほか、この周辺には対馬塚古墳・兵瀬古墳・笹塚古墳などがあって国史跡「壱岐古墳群」を構成している。壱岐の古墳の特徴や歴史背景などの資料が展示されている。

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前方後円墳である双六古墳
中でも長崎県最大の前方後円墳である双六古墳は、訪れて外から姿を眺めただけだったが、内部構造や副葬品などの説明を事前に理解しておきたかったと思った。

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百姓武家屋敷・旧冨岩家住宅
江戸時代中期の旧冨岩家住宅は、百姓武家屋敷の「オモヤ(母屋)」が移築され、隠居の老夫婦が暮らす「インキョ」、倉庫や作業場の「ホンマヤ」、牛小屋の「ウシノマヤ」が復元されている。

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旧冨岩家の「オモヤ(母屋)」
オモヤは主人夫婦とその子が住む建物で、ホンケ、ホンケヤとも呼ばれる。寄棟造の屋根は小麦藁葺きで、内部は喰違六間取りで、式台構えの玄関や仏間は他の武家住宅にも見られる。

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塞神社
郷ノ浦で一番の繁華街である「ふれ愛通り」の湊川の入口近くに塞神社がある。

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塞神社拝殿とシンボル

記紀神話」にて、天岩戸に隠れた天照大神を、大胆な裸の舞で誘い出した天宇受売命が猿田彦命と結ばれ、猿女君となって祀られている。その逸話から良縁、安産、夫婦和合にご利益ありと祈願に訪れる人が多く、芸能の神としても人気がある。拝殿脇にある巨大なシンボルと石像の御神体は、夕方になると明るく照らされ神々しい輝きを放つという。

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拝殿内
拝殿内にも男女の営みに関するものがたくさん奉納されている。塞(さい)神社というように、元来、災いを防ぐために村境に祀られた塞の神(疫神の防障、道祖神)として信仰されたので、旅の安全や交通安全を祈る人も多い。

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猿女君
本殿には女石が祀られているが、それは女神の猿女君のことであり、昔から本町本居浦の八坂神社の男神が毎年、祇園祭の際に必ず来輿し、神楽も奉納されるそうだ。

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旅館の夕食
この日も湯本温泉に泊まったが、小さな割安の旅館だったので海鮮の食事も質素だった。

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天の川酒造の3年古酒の麦焼酎

夕方に郷ノ浦の町外れにあった天の川酒造を訪れ、3年古酒の麦焼酎を買い求めていたので、いつものように部屋飲みを楽しんだ。麦焼酎発祥の地ならでは、酒造が多く焼酎の種類もたくさんあるが、それほど飲み比べしている暇はない。

 

 

曽良の墓、印鑰神社、新城神社

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諏訪大社御柱

辰ノ島周遊のあと勝本浦に戻って史跡散歩を続ける。曽良の墓があると聞いて、城山公園に向かった。蕉門十哲の一人である河合曽良の終焉の地である勝本町は、曽良翁の生誕地である長野県諏訪市と平成6年(1994)友好都市の提携を行った。その4年後、無形民俗文化財諏訪大社御柱祭」のシンボルである御柱諏訪市より寄贈され、城山公園の一角に建立された。

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曽良の句碑
平成元年(1989)「曽良280年祭」が諏訪市より墓参団を迎えて盛大に営まれた。新しい曽良の句碑には「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原」と刻まれ、城山公園に建てられた。元禄2年(1689芭蕉曽良は石川県の山中温泉に辿り着いた。ここで腹痛に苦しみ、芭蕉の足手まといになることを心配した曽良は、芭蕉と別れて、伯父の秀精法師を頼るが、その折の別れの句である。これに対し芭蕉は、「今よりは書付け消さん笠の露」の句を残す。芭蕉の笠には「乾坤無住同行二人」と書かれていたので、曽良と別れるためにこの同行の字を消さねばならないと悲しんでいる。

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勝本城址
国の史跡である勝本城址には、勝本港を望む城山の山頂部に本丸跡の石垣や礎石群が残されている。勝本城は、秀吉が天正19年(1591)、文禄・慶長の役に際して、本陣の名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐対馬兵站基地となる城を築くことを命じ、壱岐では島の領主・松浦鎮信が築城した。城山公園には城山稲荷神社が鎮座している。

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城山稲荷神社
築城と同時に戦勝が祈願され、城山稲荷神社には稲荷大明神が祀られている。

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曽良の墓
城山の山麓曽良の墓がある。河合曽良は、慶安2年(1649)に上諏訪に生まれ、若い時に両親を亡くし、伯父がいた伊勢長島の元で成人し、伊勢長島藩主・松平土佐守亮直、松平佐渡守忠充に仕官し、河合惣五郎として活躍した。その後江戸に移り、神道家・吉川惟足に入門し国学を学んだ。その時松尾芭蕉と出会って弟子入りした。木曽川長良川に挟まれる長島の地に因んで「曽良」の俳号を賜った。『奥の細道』の旅に随行した後、宝永6年(1709)に幕府の巡検使隋員となり、九州を周り、翌年壱岐国風本で病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は勝本の能満寺。

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印鑰神社の鳥居

再び勝本浦の古い街並みに戻る。細い路地に入ると、左手に印鑰神社がある。昔、勝本浦が可須浦と本浦に分かれていた頃、本浦の氏神だった。「印」は官印、「鑰(やく)」は郡官庁兵庫の鍵を示す。本浦城跡に防人司の兵庫が置かれ、神社は兵庫の印と鍵を保管する所であった。鳥居は弘化4年(1847)に建立。

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印鑰神社拝殿
太宰府は異賊の襲来が続くため、弘仁7年(816壱岐に2関と14ヶ所の火立場を設置。貞観11年(869新羅対馬を襲撃。そのため貞観13年、武具や兵器の格納庫を新設。それが兵庫という。

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印鑰神社の拝殿内部
祭神は仲哀天皇神功皇后応神天皇。拝殿内部の建築様式が珍しい。天井を支える蟇股がいくつも施され、さらに色鮮やかな装飾が施されている。本殿ではなく、拝殿にこのような意匠があるのは初めて見た。

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正一位稲荷神社
社殿の後ろには、古い石碑や小さな石造物がいくつも並んでいる。社殿の左手には正一位稲荷大明神が祀られている。壱岐には稲荷神社が非常に多く、中でも正一位稲荷神社だけでも十以上もある。

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新城神社の鳥居
勝本浦から南東に芦辺町に向かうと、壱岐商業高校の近くに新城神社がある。この新城(しんじょう)神社は、元寇文永の役で最後の砦となった樋詰(ひづめ)城跡にある。

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新城神社の拝殿
城といっても館程度のものとされている。社殿は明治19年(1886)に建立された。文永11年(127410月、対馬守護代・宗助国が80騎で応戦するも、これを陥落させた元軍は翌日、壱岐の北西海岸から上陸した。壱岐守護代平景隆100余騎で応戦したが、撤退を余儀なくされ樋詰城まで退却、一族もろとも自刃したと伝わる。

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新城神社の拝殿内部
拝殿内部には、平景隆はじめ、その一族や兵士が祀られている。

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新城神社の本殿
拝殿の後ろにかなり大きな本殿が構えている。

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平景隆墓所
本殿の左手には、平景隆墓所がある。
 

辰ノ島上陸

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辰ノ島上陸
いよいよ辰ノ島に上陸する。渡し船の発着所から波打ち際に遊歩道が整備されている。低潮線保全区域に指定されている石波止という浅瀬の入江全体がネットで囲まれて辰ノ島海水浴場となっている。

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キキョウ
エメラルドブルーの海の色を味わいながら遊歩道を進む。崖側には鮮やかな青紫色のキキョウ(Platycodon grandiflorus)の花がいくつも咲いている。日本全土、朝鮮半島、中国、東シベリアと広く分布している多年生草本植物。秋の花のイメージが強いが、開花時期は6月下旬から9月上旬で、星形の花冠の形と色が印象的である。

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辰ノ島の海水浴場

遊歩道が終わってなおも砂浜を進むと、レストハウスがあり多少の飲み物が売られている。今は引き潮なのであろうか、振り返ると、辰ノ島の砂浜はとてつもなく広々と干上がっていて、海に入るためにはかなり歩かなくてはならない。

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見返り坂より
早速、レストハウスの裏手から遊歩道を登り始める。高さ30mほどの見返り坂より振り返ると、だだっ広い砂浜と浅瀬の海水浴場、入江の先には勝本の街まで眺められる。

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ソナレムグラ
足下の岩の合間に生えていたのは、光沢がある分厚い葉に白い4弁の花が鮮やかなソナレムグラ(Leptopetalum coreanum var. coreanum)というアカネ科シマザクラ属の多年草。磯馴(そなれ)の松と同じく、強い潮風を受ける海岸の岩上に生えることからソナレと名付けられた。本州関東以西、四国、九州、南西諸島、朝鮮半島、中国、フィリピン、インド、ミクロネシアに分布し、海岸の岩場に生育する。従来フタバムグラ属に分類されていたが、近年、シマザクラ属に移された。

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目出柱
高台に出て南を眺めると、高さ50mほどの断崖の先に目出柱がわずかに認められ、その先には壱岐島の姿が見えた。

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ハマウド
セリ科の植物は、姿形が似ているものが多く、同定するには葉や茎のアップが必要である。だがこの花は、シシウド属のハマウド(Angelica japonica)であろう。本州関東以西、四国、九州、沖縄に分布し、海岸に生える大型の多年草

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鬼の足跡
昨日、郷ノ浦町の牧崎で見た鬼の足跡とそっくり同じ足跡が、ここ辰ノ島にもある。この穴も壱岐の土台石といわれる勝本層を東シナ海の荒波が侵食した海蝕洞の上部が陥没してできた穴である。鬼ヶ島伝説でデイという大鬼が褌で鯨を掬い取るために踏ん張った時にできた足跡と言われる。もう片方の足跡が郷ノ浦町の牧崎にあった鬼の足跡である。

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蛇ヶ谷
鬼の足跡の底の部分は、海に繋がっていて蛇ヶ谷と呼ばれている。先ほど辰ノ島周遊船から覗き込んだ海蝕洞である。

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羽奈毛崎
羽奈毛崎も先ほど遊覧船から覗き込んだところで、今度は高さ50mほどの断崖の上から見下ろしている。柵もないので足元がおぼつかない。

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目出柱の岬
見下ろした遊歩道の先に目出柱の岬、そのすぐ後ろに目出鼻の防波堤が認められ、さらに背後に壱岐島が広がっている。

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鬼の足跡
遊歩道は鬼の足跡を時計回りに東に向かう。鬼の足跡を今度は東側から覗き込むと、細い海蝕洞全体が見下ろせて、海につながる様子もはっきり確かめられる。こんな海蝕洞ができるのに何万年かかったものか、想像できない。

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ハマゴウ

岩山の道を下っていくと、砂地のところにハマゴウ(Vitex rotundifolia)の青紫色の特異な形の花が咲いていた。本州以南の日本、中国、朝鮮半島、東南アジア、ポリネシアなど広く分布し、海岸の砂浜に生育する常緑小低木の海浜植物である。葉を線香の原料にしたことから「浜香」の名が生まれ、転訛してハマゴウになったといわれ、ハマボウ、ハマカズラとも呼ばれる。全体にユーカリに似た芳香がある。

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辰ノ島の海水浴場
ようやく遊歩道を一周して休憩棟前に降りてきた。石波止という低潮線の浅瀬の海岸が海水浴場となっている。今は干潮なので、満潮になればここまで水際は広がってくる。
 

辰ノ島クルーズ

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辰ノ島クルーズ出航、串山半島
いよいよ、壱岐の最北端に浮かぶ小さな無人島、辰ノ島クルーズに出かける。遊覧船に乗って勝本港を出てまず北に向かう。右手には深緑の串山半島と名鳥島が重なって見え、正面の若宮島との間の仲瀬戸が開けて玄界灘が垣間見える。

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エメラルドブルー
沖に出るほどに青い海が緑を増してエメラルドブルーに変わっていく。

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若宮島
辰ノ島の右(東)手前に横たわる若宮島の東側を南から北へと眺めながら進む。

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鳥島の半島
右手には名鳥島の半島が長く伸びていて、先端に三角形の岩山が残されている。

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猫バス岩
中瀬戸の左側が若宮島で、その先端は猫バス岩と呼ばれる。中瀬戸をみたら、Uターンして再び若宮島の南に向かう。

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若宮島の南岸
若宮島の南岸には白い灯台が建ち、島の頂きにはアンテナ塔らしきものが建つ。若宮島には寛永18年(1641)に遠見番所烽火台が設けられ、明治38年(1905)には若宮灯竿、大正8年(1919)から若宮灯台となった。昭和11年(1936)に壱岐要塞の施設として若宮島砲台が設置された。現在は海上自衛隊壱岐警備署の施設があり、九州本土と対馬五島列島を結ぶ通信拠点となっている。一般人の立ち入りは禁止されている。

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若宮神社
若宮島の南岸に若宮神社があり、島名の由来になっているが、詳細はわからない。古くはにゃくの島と呼ばれたという。他に恵比寿神社や稲荷神社、若宮六地蔵がある。

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辰ノ島の恵比須鼻
ようやく辰ノ島に来た。正面が辰ノ島の恵比須鼻。辰ノ島の東半分の先端である。その右手にアブラメ瀬戸があり、その右手が若宮島である。左の白い砂浜が辰ノ島海水浴場で休憩棟の白い建物がようやく認められる。

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辰ノ島の海水浴場
辰ノ島の海水浴場は石波止とも呼ばれる浅瀬で左右に島を二分する。右手の岩場が恵比須鼻。左の岩場は目出鼻という。その一番右に渡し船の発着所がある。

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辰ノ島の海水浴場

辰ノ島の海水浴場はロープで囲まれた浅瀬で、エメラルドブルーの海水が波静かで美しい。白い砂浜も広く、休憩棟の上に伸びる白い道が、上陸した後散策する見返り坂である。

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恵比須鼻の南端:オオカミ岩
辰ノ島から戻って断崖絶壁の先端に位置する恵比須鼻を回り込むとアブラメ瀬戸に向かうが、恵比須鼻の南の突端はオオカミ岩という。アブラメ瀬戸の方から眺めた方がわかりやすいのだが、顔が突き出ている姿である。

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海の宮殿
断崖絶壁を東に回り込むと大きな海蝕洞が二つ並んでいて、海の宮殿と名付けられている。

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マンモス岩
若宮島をぐるっと東から回り込んで中瀬戸を北上して玄界灘に出る。辰ノ島の北東部に岸から離れてマンモス岩が波に洗われている。海蝕洞が突き抜けて特異な姿となり、マンモス岩と名付けられている。

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マンモス岩
マンモス岩を回り込んで反対側から振り返ると、マンモスが小さくなって潮吹き岩のある高瀬という大岩に傅いているように見える。

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大屏風
辰ノ島の北西部には大きな断崖絶壁が続く。大屏風と呼ばれている。右端に小さな人影が見えるが、この釣り人の背の高さから推定すると、この断崖の高さは50mほどありそうだ。

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羽奈毛観音
大屏風の右端近くに寄ってみると、縦に大きな海蝕洞があり、遊覧船は果敢に近づいてスリルを味合わせてくれる。羽奈毛観音と名付けられている。

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蛇ヶ谷
さらに西に回り込むと、蛇ヶ谷という縦に細長い大きな海蝕洞がある。高さ50mもある断崖の裂け目で、奥まで貫通して鬼の足跡となる。後程辰ノ島に上陸して、断崖の上から覗き込むことになるはずだ。

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目出柱
辰ノ島の西海岸を南に回り込むと大きな岩が立っている。目出柱と呼ばれる大岩で、上には大きな鳥の巣が認められた。