半坪ビオトープの日記

東善寺


高崎から榛名山南西麓を廻って草津へ抜ける道を草津街道といい、草津の手前の長野原で西に向かい、鳥居峠を越えて長野に入る道を信州街道という。どちらも長野原まで一緒だが、信州街道の要所として榛名山南西麓に大戸宿があり、関所が置かれていた。大戸関所は、元和9年(1623)2代将軍徳川秀忠の上洛にあたり、安中城主井伊直勝が警護を命じたのが始まりとされ、寛永8年(1631)に正式に設置されたとされる。

大戸関所跡の1kmほど南に、忠治地蔵がある。江戸時代には関所を避けて山越えなどをする関所破りは、重罪として処刑された。天保7年(1836)子分が信州中野村で殺されるという事件が起こり、国定忠治は仇を討つために中野村に向かったが、大戸関所を避けて信州に入ったため関所破りと認定された。嘉永3年(1850)に関東取締出役に捕縛された忠治は、関所破りの罪で大戸関所に護送されて処刑された。その処刑場跡に地蔵尊が祀られ、その後、慰霊碑も建てられた。

大戸からさらに南下すると、高崎市倉渕町権田に着く。幕末の幕政改革をになった辣腕の幕臣で、失脚後知行地権田村に隠遁した小栗忠順(ただまさ)父子の墓が、権田の東善寺にある。

本堂の左手に、栗本鋤雲(右)と小栗忠順(左)の胸像が並んでいる。栗本鋤雲は、小栗忠順とともに横須賀製鉄所を建設するなど幕末の日本近代化に尽力した。慶応3年渡欧中にアルプス登山した最初の日本人としても知られる。

曹洞宗の東善寺の創建は、寛永10年(1633)とされるが、境内に中世の石造物も認められるので、それ以前に何らかの宗教施設があったと考えられている。

小栗忠順は、上野介を称し、井伊大老に抜擢され、日米修好通商条約批准書交換のため渡米し、任務を果たして帰国後、洋式軍隊の創設など幕政の改革に努めた。薩長軍の東征に対し主戦論を唱え、勘定奉行を免ぜられ、慶応4年に東善寺に隠棲するが、東山道総督がこれを追捕し、水沼村烏川の川原にて42歳で斬首された。右が小栗忠順の墓であり、左は養嗣子又一忠道の墓である。

境内の供養墓には、小栗父子の墓を囲んで家臣や家臣の家族の墓が建てられている。そしてそれを覆うように、小栗が江戸から持ち込んだ遺愛の椿が枝を張っている。家臣の墓は、右から塚越富五郎、佐藤銀十郎、渡辺太三郎、大井儀十郎、荒川祐蔵と並んでいる。

小栗の墓の左手には、塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助、塚本ミツ、塚本チカの墓が並ぶ。

境内には多くの花が咲いている。この赤い花は、アカバシモツケソウ(Filipendula multijuga var. cilita)である。シモツケソウの高山型変種で、本州の中部地方、関東地方の亜高山帯〜高山帯の草原や稜線などに自生する。ピンク色の小さな5弁花を散房状につける。