半坪ビオトープの日記

忍城(のぼうの城)


古墳公園の丸墓山古墳から見えた忍城(おしじょう)址も訪ねてみた。
1560年に上杉謙信が関東に出陣して以来、関東を舞台に謙信と北条氏が衝突する。忍城行田市)の成田氏、騎西城(加須市)の小田氏、羽生城(羽生市)の広田・木戸氏もその戦火に巻き込まれた。戦国の世を生き抜いた忍城だが、明治維新の際に壊された。これが本丸土塁の名残である。

忍城騎西城は謙信に属したがやがて北条方につく。羽生城は一貫して上杉方だったため上杉対北条の構図が展開した。1578年に謙信が死去して一段落したが、天下を狙う豊臣秀吉が関東に押し寄せてきた。天正18年(1590)小田原城を包囲した秀吉は関東の北条配下の諸城を攻め、忍城には石田三成を総大将とする総勢2万の軍勢が差し向けられた。三成は水攻めを画し、約1週間で延長28kmにも及ぶ石堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れたが、城は沈まず「浮き城」としてその名を轟かせた。その後堰が切れ、水攻めは失敗した。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続いたが、7月14日には開城して豊臣軍に引き渡された。これによって関東の戦国時代は終わりを告げた。

忍城は難攻不落の城として、関東7名城の一つに数えられている。現在の御三階櫓は昭和63年に再建されたもので、高さが約24.6mある。内部は展示室となっていて、最上階から市内が一望できる。

忍城址にあるこの門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、かつての藩校「進修館」の表門だったと伝えられている門である。
1間1戸の切妻造高麗門桟瓦葺で、天保3年(1832)建立である。

近くに「塞神」の石碑があった。塞神とは文字通り、塞ぎ(ふさぎ)の神(さえのかみ)のことで、外から村の中に災いや疫病が入り込むのを封印する、土地の守り神であり、道祖神と似た面もある。埼玉県北部に多く、特にこの辺りの旧忍藩領に残る塞神は、明治期に庚申塔の表面を削って改造したものが多いという。

つい最近、この忍城軍五百人と豊臣軍2万人の激突の物語が「のぼうの城」として野村萬斎主演で映画化されたので、そのうち観てみたいと思う。