半坪ビオトープの日記


瑞巌寺南隣の円通院は、臨済宗妙心寺派の寺院で、伊達政宗の嫡孫光宗の霊廟として開山された。
山門は、開山と同時に建てられたと考えられ、切妻造茅葺の一門一戸の薬医門で、本堂とともに町指定の文化財に指定されている。

石庭「雲外天地の庭」。「天の庭」は松島湾に実在する七福神の島を仏の庭として表し、「地の庭」はいのちを意味した「三宝の庭」である。
「天」と「地」には天水橋がかかり二つの庭を結ぶ架け橋となっている。この辺りは「天の庭」の左の部分となる。

伊達政宗の嫡孫光宗は、幼少より文武に優れていたが、江戸城内で19歳という若さで卒し、死因には毒殺説と病死説がある。
霊屋三慧殿は、二代藩主忠宗により正保3年(1646)に建立され開山された。建物は宝形造本瓦葺で、四周に高欄付の縁を巡らす。東北地方では数少ない格式ある方三間霊屋の遺構であり、霊屋建築としては宮城県下最古とされ、3世紀半もの間秘蔵とされた国の重要文化財である。

堂内の家形厨子に中には白馬に跨がる衣冠束帯の光宗像と殉死した七人の像が祀られている。荘厳な厨子の図案は、支倉六右衛門常長が西欧より持ち帰った様々な文化を模様として描き、当寺鎖国制度を施行していた徳川幕府に対しては、伊達家の霊廟と申し立て、その扉は開けることはなかったという。光宗像の右にバラ、左に水仙が描かれ、ほかにもダイヤ・ハート・スペード・クローバーの模様もある。

三慧殿の右手奥には、約700年前の洞窟群がある。写真はないが、本堂大悲亭は光宗の江戸納涼の亭で、愛息の早逝を悼んだ忠宗が正保4年に解体移築したものであり、寄棟造茅葺の禅寺らしい落ち着いた佇まいをしている。

円通院の境内には石庭の外にも、「白華峰西洋の庭」というバラの庭、小堀遠州作の庭を移設したという「遠州の庭」、三慧殿禅林瞑想の庭があり杉林・モミジ・山野草・苔・清流・池などが織りなす自然の景観がしっとりした雰囲気を醸し出していて心地よい。松島随一の名庭園を擁し、三陸三十三観音霊場の第一番札所としての風格を備えている。