ピラトの家(Casa de Pilatos)は俗称であり、本来の名前はPalacio de San Andres de Sevilla(セビリアのサン・アンドレスの宮殿)という。現在はメディナセリ侯爵家所有の私邸となっている。
入口は左手にあり、馬車にて入れるようになっているアンダルシアの宮殿の様式である。
15世紀の終わりにアンダルシア総督ペドロ・エンリケスにより着工され、16世紀の始めに息子の初代タリファ侯爵の時に完成した。1483年、タリファ侯爵がエルサレムに巡礼を行った。セビリアに帰国後、その家と郊外にあるCruz del Campoというお堂の距離が、ピラト提督がキリストへの死刑の宣告をした場所からゴルゴダの丘までと同じことに気づいた。その偶然に感動した侯爵はVia Crusis(十字架の道)を作った。Cruz del Campoへの巡礼は1521年より1873年まで続き、現在のセビリアにおけるセマナ・サンタ(聖週間)の始まりとされる。セビリア人達はピラト提督に因んで、この家をピラトの家と呼ぶようになったという。
こちらはARROZ CON MARISCO(海鮮パエリア)。パエリアの起源は、スペインに稲作をもたらしたアラブ人に由来する。9世紀以降、アル=アンダルスのムスリムの間で作られてきた。「パエリア」という名称は本来、バレンシア語でフライパンを意味する。バレンシア地方にこの調理器具を用いた料理法が伝わるうちに料理の名称としてスペイン人全体や他国民に広まったという。パエジェーラと呼ばれる大きなパエリア鍋で炊き上げた海鮮パエリアを、店員がテーブル脇で取り分けてくれた。フォアグラをはじめ、どの料理も美味しかった。とりわけスペインを代表する人気料理のパエリアが気に入り、この後、鍋を買いたくなって金物屋を見つけると物色したが、荷物になるので最終的には諦めた。
ローマ橋からメスキータを振り返ると、手前にトリウンフォ広場があり、大きなプエンテ門(Puerta del puente=橋の扉)が視界を遮っている。Puenteとはスペイン語で橋を意味する。堂々たる門は、かつて街を囲んでいたアラブの城壁の一部だった。1571年にルネサンス様式で再建されたが、未完成で工事が中止された。その後、1928年に記念門として再建された。左手奥に聖ラファエロ勝利記念碑が認められる。
いよいよコルドバ最大の歴史的建造物・メスキータ大聖堂にやってきた。メスキータ(mezquita)とは、スペイン語でモスクという意味で、アラビア語の“Masjid”に由来するが、一般的には固有名詞として、コルドバにあるカトリック教会司教座聖堂・コルドバの聖マリア大聖堂(Catedral de Santa María de Córdoba)を指す場合が多い。スペインに現存する唯一の大モスク(ムスリムの礼拝堂)である。
荷物を携えて昼食を済ますため、横丁にオープンテラスを広げている小さなレストランで軽いランチにした。まず最初に、トルティーヤ・デ・パタタ(Tortilla de patata)。いわゆるジャガイモのスペイン風オムレツである。ボリュウムがあって、食べ応えがある。
こちらは小イカの墨煮(Chipirones en su tinta)。バスク地方が有名な料理、ヤリイカならCalamares en su tintaという。左に添えられた炒めライスには、褐色で細長い野生米(Zizania)が混じっている。
こちらの肉料理は、イベリコ豚のソテー(煮込み)。赤ワインを飲みながら、美味しくランチを楽しめた。
ようやく部屋に荷物を置き、早速街中に出かけた。グレートキャプテンの歩行者天国の中央にあるサン・ニコラス・デラ・ヴィラ(San Nicolós de la Villa)教会は、13世紀に建てられたゴシック様式のムデハール様式で、15世紀に改装されている。八角形の塔が魅力的である。教会内には、16世紀のバプテスマ礼拝堂、金細工師のダミアン・デ・カストロによる聖体礼拝堂などがある。