半坪ビオトープの日記

リヨン、ベルクール広場


翌日、ニースを朝早くたち、マルセイユを経由して夕方リヨンに着いた。アルプスから流れ出たローヌ川とヴォージュ山脈に端を発したソーヌ川が合流するあたりにリヨンの街が広がる。ローヌ川の右岸のギョティエール橋から東に見える左岸を眺めると、大きな流れがゆっくりと右手に流れていくのがわかる。

フランス第二の都市リヨンは、豊かな水の恵みを受け、ローマ時代からの長い繁栄の歴史を持つ。中世より「絹の街」として知られたリヨンは、ヨーロッパでも有数の商業都市でもあり、世界のグルメ垂涎の「美食の都」でもある。「金融の街」「ハイテクの街」とも呼ばれる。約100年前に映画が生まれたのもここリヨンである。ローヌ川下流にはユニヴェルシテ橋が見える。

ギョティエール橋から西に歩くとすぐ、大きなベルクール広場に出る。東西300m、南北200m、面積約6haとフランスの中でも有数の大きさを誇るこの広場は、1715年以来、周囲をマロニエ並木と道路で縁取られ、街を横切るローヌ川とソーヌ川に挟まれた半島状の新市街の中心にある。

だだっ広い広場の中心にはルイ14世の騎馬像があり、背後にはローマの遺跡を残すフルヴィエールの丘がそびえ、絶好の撮影スポットなので絶えず観光客が集まっている。丘の麓に広がる旧市街ビューリヨンと呼ばれる古い街並みは、ユネスコ世界遺産に登録され、現在はリヨン随一のグルメ街となっている。

1713年設置とされるルイ14世の騎馬像をよく見ると、鎧を付けずにローマ風に騎行している姿だ。騎馬像の下にはソーヌ川とローヌ川を表した銅像がある。

ベルクール広場は、12世紀末まではカトリック大司教の所有する葡萄畑で、1562年の宗教戦争の際に大砲の設置場所として使われた。その後ヘンリー4世の命により草が刈られ、市が土地を買い取った。1658年には太陽王ルイ14世により広場に建物を建てることが禁止された。広場では多くの行事が行われるが、冬の光の祭典の時には冬だけ置かれる観覧車がライトアップされるそうだ。

ベルクール広場の南西の片隅にサン=テグジュペリ銅像がある。空高く伸びた白い四角柱の上に飛行士姿のサン=テグジュペリが座り、その後ろに星の王子さまが寄り添うように立っている。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、1900年6月29日にリヨンのこの近くで生まれ、幼少の頃から飛行士に憧れ、飛行士として活躍しながら作家デビューし、第二次世界大戦中に亡命先のアメリカで「星の王子さま」を執筆して1943年に出版した。その年、軍に復帰したが、サン=テグジュペリが操縦する飛行機は、1944年7月31日に、地中海コルシカ島から飛び立ったまま消息を絶ったとされる。生誕100周年を祝って、2000年6月29日にこの銅像が建てられた。

サン=テグジュペリ銅像から西に進むとソーヌ川に出る。そこに架かる赤い吊り橋は、歩行者専用のサン・ジョルジュ橋で、その向こう側の旧市街地に見える青と白の教会は、サン・ジョルジュ教会である。

サン・ジョルジュ教会は、古くはサント・ウーラリー教会といい、547年頃にサセルドス司教へ返されるが、8世紀にサラセン人の侵略時に破壊され、802年にレイドラド大司教により再建され、サン・ジョルジュと呼ばれた。1844年にフルヴィエール大聖堂を設計したボッサンにより新しくネオ・ゴシック様式にデザインされ、ブレッオンにより建築された。教会入口の扉の上には、伝説上の「ドラゴンを退治しているサン・ジョルジュ」の彫刻があるのだが、こちらからは認められなかった。

サン・ジョルジュ教会の右手には旧市街地が広がり、その上の高いフルヴィエールの丘に建つのはフルヴィエール大聖堂である。

ソーヌ川の上流にはボナパルト橋が架かっている。この橋の左側(西)に渡ればサン・ジャン大聖堂と旧市街地があり、フルヴィエールの丘に上るケーブルカー乗り場がある。

通りからサン・ジャン大聖堂の一部が見えたが、その右手前に見える建物は教会の大司教がかつて住んでいた宮殿で、現在は図書館になっている。

新市街地に戻り北の方に進むとオペラ座の建物がある。オペラ・ヌーヴェルとも呼ばれるリヨンオペラ座は、19世紀当時のファサードやロビーに現代様式を融合させた斬新な歌劇場で、フランスの著名な建築家ジャン・ヌーヴェルのデザインにより1993年に完成した。半円形のガラス屋根はとても印象的である。

オペラ座の少し西にテロー広場があり、そこに面して豪壮なリヨン市庁舎(オテル・ドゥ・ヴィル)が建っている。1646年に建築家シモン・モーパンにより建てられた典型的なルイ13世様式の建物で、その後火災の被害にあったが1700年に大規模な改修が行われた。

同じくテロー広場に面してリヨン美術館が建っている。フランス国内でも大規模な美術館の一つで、かつてダム・ド・サン・ピエール王立大修道院として使われていた。フランス革命後に国内15の都市に絵画コレクションを設けるというジャン・アントワーヌ・シャプタルの政令を受け、この建物内に美術館が設けられた。