半坪ビオトープの日記

土呂部水芭蕉園、川俣平家塚、間欠泉


奥鬼怒最北の湯西川温泉に泊まった翌朝、南に山越えして川俣湖方面に向かった。峠を越えた土呂部地区にミズバショウの自生地がある。

雪解け後の白いミズバショウ(Lysichiton camtschatcense)の花は、4月中旬から5月初めにかけて咲くので、6月下旬には大きな葉を広げるだけとなっている。栃木県内唯一の自生地として残ったのは、いち早く鹿ガードのフェンスを張り巡らせた先見の明による。

朝露に濡れるミズバショウの葉の近くにゴマシジミ(Maculinea teleius)の可憐な姿を見つけた。止まっているのは食草のワレモコウの葉であり、ゴマシジミは三齢幼虫まで葉や花を食べて、大きくなるとクシケアリによって巣に運ばれ、幼虫の体から出る甘い液体をアリに与える一方で、アリの幼虫や蛹を食べて育つ。成長した幼虫はアリの巣の中で越冬し、翌年7月頃成虫となる。アリは成虫になると同時に襲いかかってくるため、巣の出口や外で蛹になり、成虫となった途端に巣から逃げるように飛び立つ。「アリとキリギリス」ならぬ「アリとゴマシジミ」の驚嘆すべき生態を最初に明らかにしたのは、青森市の昆虫研究家の石村清氏(1910~56)である。子供の頃に採ったゴマシジミの標本を色褪せた今でも大事に持っているが、今では写真に撮るだけで満足する。ゴマシジミは、北海道から九州にかけての湿原や草原に断続的に生息するが、今では絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されるほど個体数が減っている。

土呂部水芭蕉園のすぐ先に、ニッコウキスゲがいくつか咲いていて、その上の草原の中に「茅ボッチ」が残っていた。土呂部集落のある栗山地域では、集落を囲むように草原(茅場)が広がっていた。地元では「カッパ」と呼び、茅や草を屋根材や牛馬の飼料、畑の緑肥として利用していた。茅や草は秋には刈り取られ、「茅ボッチ」と呼ぶ束の状態で干された。里の秋の風物詩ともなっていたが時代の流れとともに見られなくなったのを、近年、「日光茅ボッチの会」が結成されて昔ながらの里山風景が復元されつつある。

上栗山地区の集落に1本の大きな老杉が聳え立っている。樹齢700年ともいわれる杉の巨木は平家杉と呼ばれ、平家の落人が再び平家の再興を願い植えたとされる。そして、もし再興ならぬ時は実がならないように願ったそうで、未だに実が落ちても小杉が生えてこない不思議な杉で、子無し杉とも呼ばれる。樹高33m、根回り10mの大杉は、日光市の指定文化財と、とちぎ名木百選にもなっている。

平家杉から西に川俣湖へ向かってすぐ左の鬼怒川の対岸に、蛇王の滝がやや遠くに見える。県道から直接見えるので、ドライブイン脇に駐車して展望できる。細長く約100mを流れ落ちる滝で、その姿が蛇に似ることからその名が付けられたという。

平家落人伝説が語り継がれる栗山地区の高台にある野門集落は、徳川三代将軍家光の時代に野門村として日光御神領編入され、戊辰戦争以来、家康の御神体を隠し持ってきたという。現在は栗山東照宮を祀り、「家康の里」を名乗っている。

慶応4年(1868)に起こった戊辰戦争の折、上野で敗れた彰義隊の残党が日光山に立てこもったと判断し、総攻撃がかけられることになった。混乱したこの時期、会津方は、日光東照宮境内にある宿坊に祀ってあったと思われる「徳川家康御神体」と「男体山三社神体」を密かに会津若松城鶴ヶ城)に移して守ろうとしたが、途中で鶴ヶ城がすでに攻撃されていることを知り、野門村に住む「小栗久右衛門(現在の民宿一乃屋の5代前の先祖)に、会津松平藩『肥後守松平容保)』よりお墨付きとともに象牙の白笏を授けて『守護職』を命じた。その言い伝えを世に伝えんと昭和45年、地元奉賛会が中心となって栗山東照宮を建立したというが、御神体というものも単なる雛人形のようなものだという。

川俣湖畔に近づくと、道路の右側に朽ちかけた鳥居があり、参道の石段を上ると川俣愛宕山神社が建っている。愛宕山信仰は京都の愛宕権現を中心とする信仰で、火伏の神、境の神として関東・東北に広く分布している。川俣の愛宕山は風光明媚の霊山でしかも高所であり、昔から山岳信仰の道場であったらしく、天狗の住処という伝承も残っている。この周辺には平家落人伝説のある大将塚と呼ばれる墳丘(行人塚)や行屋跡、大日如来毘沙門天等の石像もあり、昔日の山岳信仰の名残を偲ぶことができる。

奥鬼怒には湯西川温泉にも川俣温泉にも平家塚があるが、川俣愛宕山神社の鳥居の右手の墳丘も川俣平家塚と呼ばれている。川俣愛宕山神社の8月祭礼の際、大将塚とか上人塚とも呼ばれるこの塚の前で獅子舞が奉納される。

川俣温泉の中心地に近い道路脇に、栗山地区で最も古いと言われる薬師堂(右)が建っている。元は50m西の湯前神社の境内にあったが、昭和24年のキティー台風により湯前神社が被災したため、昭和51年に現在地に移築したという。建立時期は不明だが、堂内の鰐口には正徳2年(1712)の刻印があり、宝暦11年(1761)の御神籤箱も残されているので、江戸時代中期には存在していたことがわかる。別名湯前薬師とも呼ばれ、眼病に効くと信仰を集めている。

川俣の薬師堂前の鬼怒川に架かる噴泉橋のたもとに、間欠泉がある。数十分おきに2分間ほど、大きく鳴り響く音とともに白い蒸気をあげて100℃以上の高温泉を噴出し、高さは20~30mに達する。噴泉橋の手前の展望台から眺められ、足湯もあるので待つこともできる。