半坪ビオトープの日記


二天門から境内に入ると、正面にあるのが帝釈堂である。手前に「瑞龍の松」が枝を広げている。
昔より日蓮上人御親刻といわれる帝釈天の本尊が安置されていたが、江戸中期の一時所在不明となっていた。安永年間に至り第九代享貞院日敬上人が荒廃した寺の復興を計ったところ、安永8年(1779)本堂改修中の梁上にこの本尊を見いだした。その吉日が庚申(かのえさる)に当たったことが当山と庚申の結縁の始まりとなった。
見つかった板本尊の片面中央には「南無妙法蓮華経」の題目が書かれ、両脇には法華経・薬王品の経文が彫られ、もう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒の相を表した帝釈天本尊が彫られている。
こうして江戸を中心とした帝釈天信仰が高まり、殊に江戸時代末期盛んだった「庚申待ち」の信仰と結びついて「宵庚申」の参詣が盛んになった。

手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大振りの千鳥破風を付す。内殿は大正4年、拝殿は昭和4年の完成である。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天多聞天を安置する。参拝客がいっぱいで残念ながら中はよく見えない。

帝釈堂の内外には多くの木彫が施され、内陣の外側東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われている。その十枚の胴羽目彫刻は「法華経」の代表的な説話を選び出したものである。大正末期から昭和初期にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻家により彫られた。
最初の彫刻は「塔供養の図」で、金子光清の作である。

3番目の彫刻は「慈雨等潤の図」で、石川信光の作である。

羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄より下の部分には花鳥および亀を浮彫りで表している。
4番目から7番目までは「法師修行の図」から「龍女成佛の図」で、横谷光一から山本一芳の作である。

10番目は「法師守護の図」で、加藤寅之助の作である。

こちらは、帝釈天板本尊出現を描いた明治2年の絵馬である。