半坪ビオトープの日記


参道を進んでいくと、最初に構えているのが柴又帝釈天の二天門である。
この二天門は、十四代日孝上人のとき、明治29年に江戸期建築の最後の名匠といわれた坂田留吉棟梁により造られた総欅造りの豪壮な門である。入母屋造瓦葺の2階建て楼門で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。

柴又帝釈天は詳しくは経栄山題経寺(日蓮宗)といい、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を禅那院日忠上人とするが、その弟子題経院日栄上人が実際の開基である。
境内の内側から見ても、彩色を施さない素木造りのため一見地味に見えるが、細部には精巧な彫刻がたくさん施されているのがわかる。

帝釈天とは本来の意味では、仏教の守護神である天部の一つを指し、インド最古の聖典リグ・ヴェーダ」の中ではインドラという軍神として出てくる。三十三天の主であると同時に四天王を統率し、人間界も監視する。

柴又帝釈天の四天王は、二天門の右に増長天、左に広目天が、帝釈堂内の本尊の両側に持国天多聞天がいる。二天門の名は増長天広目天の二像に由来する。左にある増長天は、左手に剣を持つ。

二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗妙国寺堺市)から寄贈されたものである。右にある広目天は、右手に剣を持つ。

高さ約15mの大鐘楼堂は、昭和30年に完成した総欅造で、関東では比べるものがない造りといわれる。梵鐘の音響は雅楽黄鐘調といわれ、「昭和の名鐘」と太鼓判を押されている(青木理学博士)。

鐘楼の手前に人だかりがしているのは、浄行菩薩に人々が群がっているからだ。昭和53年に開眼供養が行われて、身代わり菩薩として親しまれ、患っているところをタワシで洗うと治ると信じられているそうだ。参拝者が多すぎて、残念ながら浄行菩薩がみえない。