半坪ビオトープの日記

諏訪大社下社秋宮の鳥居の手前左手には千尋池があり、そこに面して下諏訪町立歴史民俗資料館の裏口がある。友が塩羊羹を買い求めている間に急いで見学した。

建物を通り抜けて表から見ると、明治初年に建てられたこの建物は、江戸時代の宿場の商家の特徴がある。「縦繁格子」の「出格子造り」、大戸入口の脇には「見世」と呼ばれる広い板の間がある。

中山道甲州街道の接点である下諏訪宿は、宿場の中に「綿の湯」などの温泉があり、この辺りが本陣・問屋場があって中心をなし、三方に旅籠・茶屋・商家が軒を並べていた。

文久元年(1861)皇女和宮公武合体の政策により、将軍家茂への嫁入りの行列が中山道を通り、下諏訪本陣に泊まった。空前絶後のこの大行列に関する記録がたくさん残されている。

さらにここには「相楽総三赤報隊」の資料も多い。江戸時代最後に結成された草莽隊である赤報隊は、王政復古により官軍となった薩長を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の部隊である。西郷隆盛岩倉具視の支援を得て慶応4年(1868)1月に結成された相楽総三以下の赤報隊は、東山道軍の先鋒として「年貢半減」を宣伝しながら進軍した。新政府は年貢半減は困難だとして、年貢半減を建白した相楽総三に責任をなすり付けて、偽官軍の名の下に下諏訪宿のはずれで処刑した。新政府により使い捨てにされた赤報隊は、相楽の孫の木村亀太郎の奔走により昭和3年にようやく名誉回復された。

下諏訪には下社春宮のほかにも万治の石仏、本陣岩波家、今井邦子文学館など見所がいろいろあるが、またの機会にとっておいて、名物のうなぎを味わった。

帰りがけに諏訪湖畔を眺めた。大型遊覧船は目を引くがまだ水質汚濁はどこでもみられる。湖畔公園近くには水草のヒシが異常繁殖していた。諏訪湖は以前アオコの異常発生があり水質悪化がひどかったが、近年は努力の甲斐があり多少水質浄化に向かっている。とはいえ、今度は浮遊植物のヒシの繁茂が問題となっているようだ。
これで、木曽駒ヶ岳駒ヶ根高原諏訪湖周辺の旅は終わった。