半坪ビオトープの日記


多賀城碑のすぐ脇に芭蕉の句碑が建っている。
「あやめ草足に結ん草鞋の緒」
芭蕉曾良は「おくのほそ道」紀行で多賀城の歌枕・「壺碑」を訪ねて、碑文を指でたどり次のように記す。「ここに至りて疑いなき千歳の記念 今眼前に古人の心を閲す(けみす) 行脚の一徳 人名の悦び羈旅の労を忘れて涙もおつるばかりなり・・・」
芭蕉はその後一旦塩竈に向かい食事をとった後、再び多賀城に戻り「野田の玉川」、「浮島」、「おもわくの橋」、「末の松山」、「沖の井」と歌枕の地を精力的に巡っている。

多賀城碑の碑文によれば、多賀城は按察使大野東人により、神亀元年(724)に築城されたという。南門にあたるこの辺りから北に、東門跡近くの陸奥総社宮辺りまでの広い範囲が多賀城跡となる。
タンポポが咲き乱れる中を多賀城政庁跡に向かって道路跡が続いている。

多賀城が創建されると、それまで陸奥国府であった郡山遺跡(現在の仙台市太白区)から国府が移され、鎮守府も置かれ、政庁や寺院が置かれ、城柵で囲まれていたと考えられている。
宝亀11年(780)多賀城は伊治公砦麻呂の乱で焼失するが、再建後、鎮守府は胆沢城(岩手県奥州市)に移されても、国府はそのまま多賀城にあった。

多賀城に赴任した官人には、日本初の産金を朝廷に献上した百済王敬福万葉歌人であり多賀城で没したとされる大伴家持征夷大将軍坂上田村麻呂、能の「融」で知られる源融などがいる。橘諸兄の指図により万葉集を取りまとめたといわれる大伴家持は、30歳から地方国司を歴任した後、晩年の延暦元年(782)陸奥按察使鎮守将軍として多賀国府に赴任し、3年後に68歳で病没した。宮城県に関する歌は、越中の守の時、陸奥産金の噂を聞き詠んだ歌が万葉集に載っている。
「すめろきの御代栄えむと東なるみちのくの山にくがね花咲く」家持

多賀城政庁跡の北にある加瀬沼の手前に陸奥総社宮がある。延喜式内社2861社のうちの陸奥国内31郡にある100社を合祀し、国司が自ら祭事を行うために平安時代中期に建立された。

塩竃神社に詣でる前にこの総社宮に参詣しないと神の加護が得られないと伝えられている。現在の社殿は、享保年間(1716)に再建されたものである。