半坪ビオトープの日記


国府多賀城駅周辺には今から1300年前からの遺跡が至る所にあって、いくつかの散策コースがあるが一日かけても見尽くせないほどだ。
東北歴史博物館のすぐ東に、特別史跡多賀城廃寺跡がある。奈良時代初期に陸奥国府と鎮守府が置かれた多賀城の付属寺院として建立されたものである。

南北に中門と講堂、中央東西に三重塔と金堂が並び、これら全体を築地塀が囲んでいた。講堂北部には僧房、経蔵、鐘楼が並び、福岡県太宰府市観世音寺に似た伽藍配置となっている。
この小高くなっているところは塔跡である。

多賀城廃寺跡のすぐ北に多賀神社がある。古代に多賀城に赴任した陸奥国司や開拓民が崇敬していた近江国多賀大社を遷祀したのが起源とされる式内社である。

主祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)で、「日本書紀」の葦原中国平定で出雲に天降り大国主命と国譲りの交渉をした神である。

国府多賀城駅の北には多賀城政庁跡を中心とする多賀城関連遺跡が広がっている。南門跡の近くの覆屋の中に多賀城碑がある。高さ196cm、最大幅92cmの古碑は江戸時代初期に土中から発見され、仙台藩が歌枕の「壺碑(つぼのいしぶみ)」としたことから脚光を浴びた。
昔、西行らが未知なる陸奥の象徴として和歌に詠んだ。「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壺の碑外の浜風」西行山家集

碑文には、平城京や各国境からの距離と、多賀城の創建・修造の記事などが刻まれている。「壺碑」とは関連がないが、奈良時代の建立が確認され重文に指定されている。
碑文の建立年月日は、天平宝字6年(762)12月1日で、多賀城の修築記念に建立されたという。栃木県の「那須国造碑」、群馬県の「多胡碑」とともに日本三古碑の一つである。