半坪ビオトープの日記


多賀城から塩竃神社に行ったが昼近くになり、参拝客と花見客でごった返していて駐車場に入れなかったので松島に向かった。
松島海岸駅前の「かき松島こうは」で殻付かき定食を食べた後、松島海岸を散策した。
福浦島の前から海岸を西に歩くと、海に飛び出した島に五大堂が見える。

五大堂は瑞巌寺の所属で、陸から朱塗りの桟橋でつながる小島に建つ仏堂である。

この橋はすかし橋といい、橋桁の隙間から海が見え、五大堂へ行く際に足下を見て気を引き締めるために作られたそうだ。別名「縁結び橋」ともいわれる。

伝承によれば、大同2年(807)坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。その後、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に、東方降三世明王、西方大威徳明王南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。ケヤキ材一木造の明王像は平安時代末期の作とされ、五大堂とともに重文に指定されている。
現在の堂は、慶長9年(1604)伊達政宗瑞巌寺の再興に先立って、紀州名工鶴衛門家次に命じて再建した。素木の方3間の宝形造で、四方に勾欄付の縁を巡らし、正面に向拝をつける。

堂四面の蟇股には一辺に3匹、四方で12匹の十二支の動物が彫られている。

この彫刻は太陽と同期していて、その時点の時刻を表すという。
五大堂は東北地方最古の桃山建築といわれ、国の重文に指定されている。
「おくのほそ道」で芭蕉は、待望の絶景に接してもはや句を詠むどころではなく、句作を断念して、さて眠ろうとしても、感激のあまり眠ることができないとして、曽良の句を載せている。
松島や鶴に身を借れほととぎす  曽良