半坪ビオトープの日記


飯坂温泉の少し手前に真言宗豊山派の瑠璃光山医王寺がある。石柱には医王密寺と彫られている。山門の右手には貴船神社がある。

医王寺は、天長3年(826)空海作の薬師如来像を祀り、草堂を建てたことに始まると伝えられる。平安時代末に信夫郡を支配した佐藤一族の菩提寺である。山門には「信夫荘司佐藤基治公継信公忠信公菩提寺」と書かれた表札が掲げられている。
山門を入ってすぐ右にシラカシの巨木がある。寛永年間(1624)の当寺再興の折に植えられたと伝えられ、福島市の天然記念物に指定されている。

参道のすぐ右手に内門があり、本堂が見える。

信夫の庄司あるいは「湯の庄司」といわれた佐藤基治は、治承年間(1177頃)に大鳥城を居城として当地方を治めていて、菩提寺としての医王寺を隆盛に導いた。本堂の本尊は金剛界大日如来である。本堂の左手塀際に松尾芭蕉の句碑がある。

元禄2年(1689)「奥の細道」の行脚で医王寺を訪ねた芭蕉は、佐藤継信・忠信兄弟を偲び、「笈(おい)も太刀も五月に飾れリ紙幟(のぼり)」の句を詠んでいる。ただし芭蕉は本堂には寄らず、薬師堂裏の佐藤一族の墓に直行したといわれる。

山門から長い参道が200mほど真っすぐに薬師堂までのびている。

平泉の藤原秀衡のもとから源義経が旗揚げした折、佐藤基治は子継信・忠信兄弟を遣わした。継信は屋島の合戦で矢を受け楯となり義経の身代わりで討ち死にし、その後、忠信は頼朝に追われた義経を装い身代わりとなって討ち死にした。弁慶と義経一行は平泉に向かう途中医王寺に参籠し、兄弟の遺髪を埋めて追悼法要を営んだという。ただしこの義経主従像は、近年に造られたものである。