半坪ビオトープの日記


分倍河原の戦い新田義貞が陣を構えたといわれるところに現在、龍門院高安寺がある。開基は室町幕府初代将軍足利尊氏で、全国に建てた安国寺のうち武蔵国の安国寺として位置づけられていた大寺院であった。江戸時代初期までは臨済宗建長寺末の寺院だったが、曹洞宗海禅寺七世により再建された。

明治5年に築かれた山門は、欅造り二階建ての二重門で、柱はすべて円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。
左右に仁王像が立ちはだかる。本堂側には珍しく脱衣婆と地蔵尊が立っている。これが脱衣婆である。
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享和3年(1803)建築の本堂は平屋建てで、屋根は寄棟造り銅版葺(旧茅葺)、六つ間取で内陣や大間の組物廻りに意匠を凝らした点に特徴が見られる。

安政3年(1856)建築の鐘楼は、彫刻装飾を多く取り入れている。徳川幕府公許の鐘として、二六時中時を報じ、明治維新よりこの方、朝・昼・夕の三回時を報じ、時の鐘として近隣に親しまれている。
本堂、山門、鐘楼とも都の選定歴史的建造物となっている。